Insane Sacrifice

[Fortune Arterial short story]
 そうして私は、ついにその日を迎えた。
「入れ」
 冷酷な声は襖の奥から。まるで心の殻がごときそれを開ければ、漏れ出てくるのは不快なほどに焚かれたお香。澱んだ空気はあたかも二百三十年間の腐敗を意味しているかのよう。
「失礼します」
 踏み入ると、畳がみしっと微かに鳴いた。甲高い音。畳は和室の主と同様、私を歓迎していないらしい。自室のそれであれば心地よくもある足裏のその弾力が、いまは私を部屋から追い出すための抗議であるとしか思えない。
 それでもみしりみしりと、部屋の中央まで進んで。心持ち普段よりゆっくりと、左膝から正座する。
 なぜなら勿論、その機会はこれが最後であろうからだ。
「用件は分かっていような?」
 正面、大部屋をひとつ丸々仕切れるほどに巨大な御簾が覆い隠すその声に、感情の変化は見られない。いつも通り、そこには自分すら欺くほどに深く重い靄が存在していた。
 押し潰すような、悲しいまでの威圧感。頭を垂れて応えを返す。
「承知しています、母様」
「そうか。では結果を聞かねばなるまいな?」
 ぱちんぱちんと扇の開閉が始まる。示された不快感。私はわざと間を置いて、言った。
「眷属を作ることについては、承服致しかねます」
「……ふむ」
 扇の音は続く。御簾の向こう、果たしてどんな表情が隠されているのか。音からでは、あるいは目で見えたとしても、それはおそらく確認できない。
 御簾の方を向くこともせず、私はそのまま相手の反応を待った。視界を埋める浅葱色。塵ひとつ落ちていないその気持ち悪いまでの清潔さは、今度二児の父となる東儀家当主のたゆまぬ努力の賜物だ。はるか昔から続くしきたり。私には確認する術すらないが、労働力のみならず、その金銭的な支援もまた尋常ではないはずだ。加えてさらに、そう、その命までもいつか差し出す覚悟ですらあるのだから、私としては言葉がない。まだ幼いあの征一郎にも同じ運命が待っているのかと思うと、自分が情けなくなってくる。
「お前、今日は用件を分かっていながら、なお来たのだろう? それともそれすら察せぬほどの無能であったか?」
「いえ、承知した上でこうして参りました」
「であれば本当に愚かよな。今度こそは最後通牒だと、先日言ったはずだが。逃げる度胸すらあらなんだか」
 もっとも逃がすつもりもないがな、と続けて、こちらの反応を待つかのように言葉を止めた。まるで間抜けの言い訳、その滑稽さを嗤おうとする観客のような間の取り方だ。最初からこちらの意見に取り合おうとする気は毛頭ない。
 こんなことを二百三十年も続けてきたのだ、この人は。
「伊織を始めとして、あたしの労苦を水泡に帰したのはお前で三人目か。世話してやった恩も忘れ、よくもまあこうも愚かに育つものよの。あるいは男というのがその愚かさの原因なのかもしれんな」
「……申し訳ありません」
「よい。既に価値のない物に何を言われたところで、蚊ほども気にならん」
 ぱちん、と合図のように扇が鳴った。
 声音は冷徹を越えて平坦に。眼前の問題に何らの関心も寄せなくなったときの態度だ。末路はもう、一つしかない。
 ……けれど、それでも私はこの人を恨むことなど出来ない。
 一度だけ会うことのできた長兄のように、この人を心の底から恨むことができれば、おそらくこうはならなかっただろう。あの兄が多少の制約はあるにせよ未だ見逃されていることも、そこに理由があると見える。
 だがそれで本当にいいのか。私にはとてもそうは思えない。歪んだ関係はそのひずみを永遠に大きくしていくだけではないか。腐敗は不可逆。発酵と腐敗は結果の善し悪しで分別されるというが、そのままではこれは腐敗にしかなりえまい。それを永遠に続けることの、どこが解決か。
 だから私はこの運命を受け入れる。東儀家が続けてきたように、そして聞き及ぶ限り私のもう一人の兄がそうしたように、私もその命を差し出そうではないか。歪んだ関係を構築し腐敗を進めるくらいであれば、私はその関係が真に改善される日が来ることを信じていたい。そしてそんな日がこの永遠の先のどこかにあるのであれば、だったら私はその実現に一役買いたい。ありえない可能性であったとしても、しかしあるかもしれないその可能性、私がこの人を恨んでそして殺されてしまっては、わずかなそれも潰えてしまう。それだけは私は避けたいし、きっと東儀家もそれを願って異常な奉仕を続けているはずなのだ。長兄もまた、それを分かっているがゆえに自分に目を向けさせているようなことを言っていた。
 だから、これは願いだ。いつか来るであろう、いや、来て欲しい、その発酵された解決の日への。私たちが命を差し出し続けて待ち続ける、その未来への。
「さて、それでは返してもらおうか」
 御簾の奥。完全に興味を失ったと思ったその声はしかし、関心をもって再び私に向けられた。
 正確に言えば私の持つ何かに対して。だが、返す? 一体何を?
「母様?」
「お前には過ぎた物だったということだ。もっとも、選んだあたしにも責任の一端はあろう。次こそはこうならないようにせねばな」
「……?」
「なに、分からずともよい。折角の珠を無駄にしたお前には、分からずともな」
 言っている意味は分からない。
 しかしその、信じがたいほどに、そしていつも以上に怒気を孕んだ声音は、私がこの人のやろうとしていることを察するには充分すぎた。
 ……怖くないと言えば嘘になる。
 でも、それでも私はやはり、この人の子なのだ。曲がりなりにも家族であるのだ。だったら家族の幸せ、願うことはそう間違いではないと信じたい。
 それがたとえ自らの命と引き換えで、起こりえないほどにわずかな望みだとしても。
「恨み言の一つ二つくらいは、聞いてやっても構わないが」
 言いながら、自ら御簾を上げてこちらへとゆっくり歩み寄ってくる。私は当然、その動きを正座のまま待っていた。
 顔をあげ、そのうっすら笑いを浮かべているとも取れるその母に向かい、言う。
「ご期待に添えず、申し訳ありませんでした」
「……ふん。最期まで出来損ないは出来損ないか。恨めと言っても恨めぬのでは、猿のがまだ賢かろうよ」
 赤い瞳が一層つり上がる。
 躊躇いも戸惑いもなく、あっさりとその細腕が着物の袖から伸びてくるのを、私はしっかとその目で捉えていた。
「――っ」
 そうして、ずぶり、と。
 その手が私の胸に沈むさまもまた、私は薄れゆく意識の中で確認して。
「……、……」
 取り出した何かを私に見せつつ、何ごとかを言っているその姿を網膜に焼きながら。
 私はそうして、かすかな可能性を胸に抱いてその生をついに終えたのだった。


 ――願わくば、この母の救われる日が来たらんことを。

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Short Story -Fortune Arterial
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