猛暑のフリードライ

[Fortune Arterial short story]
 蒸し風呂のような暑さが、珠津島を覆っていた。
 炎天下、地面から水蒸気のように沸き上がってくる熱気。目が霞むほどの汗に、それと区別のつけようのない陽炎。遥か空高くから太陽がじりじりと辺り一面を焦がしていくさまは、雨の日を一日二日挟んだところで衰えを欠片も見せてはくれなかった。
 掛け値なしの猛暑。
 普段であれば快適なはずの海風も、今となっては不快な湿気を運んでくる厄介者に成り下がっている。山から吹き降りてくる緑風にしたってそう。風が吹けども涼しさはなく、雲が出ようとも温度は下がらない。不快指数という言葉はタガが外れて壊れてしまった。
 それでも暑さで学校が休校になるなんて校則が生徒手帳に載っているわけもなく、誰もが天候の話を休み時間のたびに渋面で話しながら授業を受けていたのだった。
 もちろん教室に冷房は完備されている。寮だってある進学校。暑さで勉強に集中できないようでは本末転倒、とでも言わんばかりに、ほぼ全ての教室に冷房が入っているのは確かに救いではあった。既にクーラーの稼働期間に入っている。監督生室でさえ冷房なしではやっていけないこの時分、むしろつけていない場所を探すほうが大変なくらいではあった。
 けれど学院全体を探すまでもなく冷房のかけようのない場所というのはもちろんあって、
「ったく、今日はさすがに死ぬかと思ったぜ……」
 死んだ魚のように虚ろな目をして、司が呟く。滝のようなという比喩を考えた人間を褒めたくなるくらいに吹き出している汗。それはもちろん司のみならず、他の誰だって似たような状態にはなっていた。
 つまりは暑く、つまりは炎天下。着ているのは制服よりは遥かに通気性の良い、それでも今は捻れば零れるほどに汗を吸い取った体操着だ。洗濯を忘れようものなら一日で臭くなってしまいそうで嫌になる。
「よーし、じゃあ今日はここまで! 水分補給は忘れずにな!」
「っしたー!」
 ピーッと笛が鳴って授業終了。すぐにチャイムの鐘も鳴り響いて、誰もが冷房の効いた校舎を目指して一目散に駆け出していく。
 ――要するに、よりによってその日は外での体育があったのだった。






       ○  ○  ○





「あー、クソ……どうするかな」
「どうかしたか?」
 着替えが終わり、休み時間。クーラーのガンガンに効いた教室で涼んでいると、着替えてすぐにどこかに行っていた司が悪態をつきながら戻ってきた。廊下もまた暑かったんだろう、少しばかり汗ばんだ手で教室の戸をぴしゃりと閉め、いつもどおり気怠そうに椅子へと身体を預ける。
「いや、いつもサボるときに使ってる場所、冷房かかってなかったんだ。だからどこで寝ようかと思ってな……ここでも良いんだが、英語はいつも途中で起こしに来るから安眠できん」
「……一応突っ込んでおくけど、寝ない、って選択肢はないんだな」
「あれだけ運動した後で寝るなっていう方が無理だろ。ってわけで当てられたら適当に頼む」
「誤魔化せるわけないだろう……」
 当てつけがましく溜息を吐いて見せたものの、既に司は寝入り体勢に入っていてこちらを見てはいなかった。色んな意味でこいつの図太さには畏れ入る。もちろん真似しようとは思わない。
 ほどなくして司の寝息が聞こえ始めた頃、今度は教室の後ろの戸から着替えの終わった女子たちがぞろぞろと教室に入ってきた。みな一様に「暑い暑い」と呟いていて、躊躇いもなくぱたぱたと服をはためかせるのはさすがに更衣室までにしてもらいたい。じっと見ていても不味かろう、そう思い視線をずらそうとして、集団から少し遅れて教室へと戻ってきた女子生徒に目が止まる。
「あれ、紅瀬さん……?」
 現れたのはいつも通りというかなんというか、相変わらずの不機嫌顔。暑さへの不満はフリーズドライの異名すら溶解させつつあるようで、教室の冷房を身に浴びたときの安堵の溜息はあまり見ない類のものだった。
 そしてもう一つ、というかどちらかといえばそっちの方がより大きいのだけれど、そんな変化が紅瀬さんにはあって、それに気付いた司以外の男子たちが何も言わずに俺と紅瀬さんを見比べていく。支倉、ちょっと聞いてみろよ。っていうかお前しか聞けないだろ。そんな好奇心の押し売りが無言のプレッシャーとなって俺の肩へとのしかかってくる。
 紅瀬さんは気付いているのか、気付いていてもどうでもいいのか、意に介さずにいつも通り俺の真後ろの席へとついて、再び大きく息を吐いた後自分の鞄から文庫本を取り出した。本を読み始めたら声をかけるのは躊躇われる。その前に、俺は身体ごと紅瀬さんのほうへと向き直った。
「……何か用かしら?」
「あー、用ってほどでもないんだけど。……紅瀬さん、髪型変えたのか?」
 疑問。紅瀬さんはふう、と溜息を挟んで。
「まったく、貴方までそんな……暑いから髪をまとめただけで、別にどうということもないでしょう」
 形の良い眉を崩しながらそう言って、なぜだかいっそう不機嫌そうに、背中へと流した髪の束をその右手で梳いて見せた。
 ポニーテール。今の紅瀬さんは一般にそう呼ばれている髪型をしていた。いつもは邪魔な髪をくくっていた赤いリボンで縛り上げているらしい。じっと見ていると、呆れたように紅瀬さんが目を閉じ嘆息する。
「そんなに珍しい髪型かしら?」
「いや、そういうわけじゃないけど。でもなんか面白くなさそうだな?」
「それはそうでしょう。大した意味もないものを言及され続ければ、誰だって」
 ……ああ、そういうことか。
 もはや溜息に近いそれで、紅瀬さんの機嫌の意味を悟る。要するに既に更衣室で一波乱あったということだろう。一時期と比べて「壁をそれほど感じなくなった」(陽菜談)こともあって、やいのやいのと褒められまくったに違いない。確かに珍しくはない、でも紅瀬さんがするにはあまりに珍しくて似合っているその髪型は、男子のみならず女子にとっても惚れ惚れするようなものだというのはよく分かる話だ。ましてその理由が単に「暑いから」だっていうのもまた紅瀬さんらしい。実際の体育の授業、活発に動いている様子が見られなかったことが残念でならない。
「髪をばっさり切ったのならともかく、少し結っただけでしょう。貴方が三つ編みをしたまま授業を受けた時と同じような扱いをされるのは心外だわ」
「そこであの時のことを出されるのも心外だよ! というかあれは笑われてたんだ、紅瀬さんのそれとは別物だろ」
「注目されることそのものが嫌だと言っているのよ」
 ふう、と普段と同じように髪を払って再び息を吐く。後頭部で馬の尻尾がゆらりと揺れた。
「それ、前の席だったら授業中に引っ張ったりできたんだけどな」
「もしそんなことをしたのなら、千堂さんに支倉君の教育を改めさせるよう報告させてもらうでしょうね」
「それは勘弁してほしいな……」
 そんなことを言っているうち次の授業の予鈴が鳴る。
 ちなみにとてつもなくどうでもいいが、授業が始まっても司は結局爆睡したままだった。





       ○  ○  ○





 帰りのHRが終わり、担任に一礼をしてとりあえずの放課後となる。だというのに半分近い生徒たちがどことなく憂鬱な表情を見せていて、ああ、そういえばみんな運動部の人だな、なんてことに思い至る。いくら運動好きな人だって、こんなクソ暑い中で再び汗まみれになることはご遠慮願いたいのだろう。名残惜しげに冷房のかかった教室から出て行くさまは、他人事ながら不憫で同情したくなる。
 とはいえ俺たちだって教室に居たままではしょうがない。監督生室までの長い階段を上ると思うと運動部の彼ら彼女らに似た感情を抱いてしまうが、とはいえ監督生室自体は冷房が効いているはずだった。比べてしまっては炎天下のもとで高負荷の運動を義務づけられている生徒たちに申し訳ない。
「じゃ、行くか」
「ええ」
 振り向けば、とっくに支度を終えていた紅瀬さんが立ち上がるところだった。その髪はいまだに結い上げたまま。綺麗な髪束がふらふらと揺れるさまは見ていて面白くもあった。絶対口には出さないけど。
「今日はできれば書類整理で終わりたいよなあ」
 冷え切った教室から出て、太陽が燦々と輝く中を上へ上へと進んでいく。俺より身体的な負担は軽くとも暑さはどうにもならないようで、隣を見れば紅瀬さんの白い肌にも大粒の汗が浮いていた。当然と言えば当然なのだけれど、そんな普通さになぜだか妙に驚いてしまう。
「……何かしら?」
「あ、いや、まあ。髪、文句言ってた割には解かないんだなと思って」
「ああ……」
 言って、紅瀬さんはいま思い出したかのようにリボンで止まった部分へ手をかけた。ああ余計なこと言ってしまった、そんな後悔の念に駆られながらその動きを見ていると、なぜだか彼女はリボンを解かずにそのまま大きな溜息を吐いて、
「貴方も同じような顔をするのね」
「顔? え、どういうこと?」
「冷房が効いていたのだし、休み時間、何度か髪を解こうとしたのだけれど、たいていは目があった相手にそういう顔をされたのよ。悠木さんなんて見るたびに『あっ』とか『えっ』なんて呟いて……」
 紅瀬さんが困ったように息を吐く。
 そりゃあ俺だって、紅瀬さんがこの珍しい髪型を解こうとしたなら残念そうな顔をするだろう。というか、した。たった今。いつものストレートがだめとかそういう訳では断じてないのだけれど、「あの紅瀬さんが」珍しく髪を結っている、というのがとても重要なのだ。さすがは紅瀬さんを隠れた人気者として扱っているだけあって、うちのクラスの生徒には話が分かるやつが多いということか。
「……ん?」
 けれど、ということはつまり、だ。
「じゃあ紅瀬さんは、期待に応えるためにそれを維持してたってこと?」
「――っ、そうは言ってないでしょう。どうしてそういう結論になるのかしら」
「どうしてもこうしても、そうとしか考えられないというか、そういう意味だろこの場合」
「貴方はすぐそう、都合のいい解釈を……」
 そう疲れるはずのない石段で、紅瀬さんが急に息を切らせたかのように頬を染めてぶつくさと呟く。それでも「都合のよくない解釈」とやらが反論として返ってくることはなかった。
「別に恥ずかしがるようなことでもないだろ。それだけ似合ってるってことなんだし」
「単なる物珍しさでしょう。ええ、だから千堂さんたちに何か言われる前に解いておくことにするわ」
「えっ、そうすると俺の期待は?」
「期待も何も……そう面白いものでもないでしょうに」
「いや、いやいや! 面白いとかじゃなくて、すごい似合ってるからたまには見たいな……とか……」
「――……。貴方とは二人になる機会だって多いのだから、見たいというなら言えばいいでしょう」
「え……いいのか?」
「いいも悪いも、このくらいどうだっていいとさっきから言っているわ」
 言って、俺から顔を背ける紅瀬さん。それでもちらりと見えた頬、そして結い上げているせいで露わになっている首もとまでもが心なしか赤くなっていて、いやまあ、そこまで言われては俺だって頬を掻いて待つより他に選択肢はない。今更ながらに直射日光の暑さに改めて気付いてしまった気分。早く冷房のある監督生室に行きたいという欲求と、もう少し構わないんじゃないかという思いが頭の中で交錯した。
 顔を背けたままの紅瀬さんはそれでも赤いリボンに手を掛けて、ぐっとそれを引っ張って解こうとしたところ、
「あれ、支倉先輩に、紅瀬先輩?」
 俺たちが上ってきた、そのやや後ろ。暑さに負けない元気な声がかけられた。石段に足をかけたまま振り返る。
「ああ、白ちゃん。これから行くところ?」
「はい。先輩たちもですよね。……わっ、紅瀬先輩、髪型変えたんですか? すごく綺麗です。とっても似合ってると思いますっ」
「……」
「……」
 無邪気すぎる賞賛と好意に、俺と紅瀬さんは無言のまま目を合わせる。
 固まる紅瀬さんの右手。ほんのわずかながら引き攣る表情。それに内心俺はなんとも表現しにくい喜びを感じていて、彼女がコマ送りのようにゆっくりと右手をリボンから遠ざけていくさまに少しばかりの苦笑が漏れる。不可解そうな白ちゃんの表情とのギャップがまた可笑しくて、俺は恥ずかしそうに睨み付けてくる紅瀬さんに対し何を返すこともできなかった。
 会長ですら手を焼く白ちゃんの無垢な瞳に、今の紅瀬さんが勝てるはずもない。
「……あ、あれ? もしかして失礼でしたか?」
「い、いえ、そういうわけではないのだけれど……」
 救いを求めてこちらに向く視線も、俺は遠くに投げ去って。
 今日の生徒会の仕事は暑さに負けず捗りそうだ。そんなことを思いつつ石段を上る歩みを再開させる。遅れて後ろからは、本当に感心している白ちゃんの声と、明らかな戸惑いと俺の背中への恨み節にまみれた紅瀬さんの反応が追ってきた。気付かない振りして真っ直ぐ進んでいると、すぐに漏れてくる諦めの溜息。
 会長たちの反応も楽しみだ。そんなことも思いながら、俺たちは監督生室へと向かったのだった。
 ……きっと今日は生徒会の仕事が終わるまで、紅瀬さんのその髪が解けることはないのだろうから。


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Short Story -Fortune Arterial
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