[Fortune Arterial short story]
 冷房が稼働している音と、書類にボールペンを走らせる音、そしてキーボードを叩く音だけが支配する昼間の監督生室。
 誰もが仕事に集中し、定期的なそれらの音がむしろ集中力を一層促しているようですらあり、眠気どころか疲れすら感じる暇のない、そんないつもの時間帯のこと。

 しかし今日はそこに、たった1つの異音が混じっていた。

「……んもう、うるさいわねえ」

 誰もが気にしないように努めていたのだが、やはりというかなんというか、一番最初にそれに音を上げたのはこういうのに敏感そうな瑛里華その人だった。表情を見るまでもなく、それはまるで親が無理矢理切り刻んで混ぜたピーマンを焼きそばの中から見つけてしまった子どものように不機嫌な声。
 そうしてその指摘で、俺、東儀先輩、そして会長が一斉にその集中力を霧散させた。一気に砕ける緊張の糸。なんのことはない、皆ぎりぎりのラインで頑張っていただけのこと。

 そうして緩みに緩んだ空気の中、みんなの意識を一身に浴びることとなったその異音とは。
 瑛里華に続き、会長が大きく溜息を吐く。

「居るね。蚊が」

 そう。
 眠れない夜に鳴り響く時計の針がごとくに俺たちの集中力をかき乱し続けたのは、たった一匹の蚊だった。
 ここに居る誰もが「どっか行け」という念波を送っていたであろうにも関わらず、そいつはずっとこの監督生室の中央をぐるりぐるりと飛び回っていやがったのだ。その不快な羽音をぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んと響かせ続けながら。

「あーあ。せっかく気にしないようにしてたのに、瑛里華が口に出しちゃうから」
「仕方ないでしょ。それにどうせ集中できないなら、どうにかしてから仕事を再開する方が効率的よ。
 これ以上蚊に食われるのも嫌だしね」
「ああ、そういえばこの前、首の辺りが痒い痒い言ってたっけね」

 会長の言葉に対して、ふん、と怒りの眼差しを虚空に向けて答える瑛里華。
 その視線の先には、ブラウン運動のごとく不規則に動き続ける彼女の宿敵、モス・キート(たぶんアメリカ出身)。

 しかし人間であれば1ターンはひるむであろうそんな瑛里華の睨み付ける攻撃もモス氏は意にも介さずに、なおも耳障りな音を立てて飛び回っている。マジKY。

 そしてきっとそれが一段と癪に障ったのだろう、瑛里華は手元にあったノートをぐっと丸めて腰を少し浮かせた。そのまま右手の平を上に向け、中指でちょいちょいとモス氏を招き寄せていき。

「そう、こっちよ。もうちょっとこっちに、そうそう……」

 その目はもう獲物を狙う猛禽そのものだ。

「うわ、支倉君。なんかこう、死刑台に導く死神って感じしないかい?」
「そんなこと言うと、会長が後で導かれますよ」
「聞こえてるわよ。……ああもうじっとしなさい!」

 ゆらりゆらりと動いていたモス氏。
 だがまるで恫喝されたが如く、それは動きを一瞬ぴたっと停止して。

「――せいっ!」

 ひゅん、と甲高く鳴ったのは風切り音か。
 音に遅れてよくよく見れば、そこには球を投げきった後のピッチャーのような動作で停止している瑛里華の姿があった。手に持つ丸まったノートは脇にくるまる方向にむけられていて、手首のスナップが効いた強烈な一撃が中空を切り裂いたのは考えるまでもない。
 あわれモス氏。瑛里華の機嫌維持条例違反で私刑。享年たぶん二十日くらい。

「さあ、これですっきりしたし、仕事に戻るわよ」
「うわっ、瑛里華、生き物を蚊か何かのようにあっさりと!
 気を付けろ支倉君、さすがはあの人の娘だ。きっと人間の命も蚊ほどにしか思ってないはずだよ」
「……いや、今のは蚊ですし」

 氏には申し訳ないが、まあ、うるさかったのは事実と言えば事実だ。
 わざわざ窓の外へ逃がしてやるほど蚊を思っているわけでもなし、運が悪かったと思ってモス氏には諦めてもらうより他にない。

 そんなことを考えて、よし仕事に戻るかとボールペンを持ち直したとき。

 ぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん――……

「……またか?」

 反応したのは東儀先輩。
 再び悪魔の羽根の音が監督生室に響き始めたのだ。その不快っぷりは歯医者のなぜか妙に甲高いあのドリル音に勝るとも劣らない。

「いや、一匹しか居なかったはずですよ。窓も開いてないし……」
「あれ、瑛里華、仕留め損なったのか?」
「まさか! 本気でやったし、この目でちゃんと確認したわよ。撃墜するところ」
「本気でやったのかよ」

 いやまあそれはともかく。
 どれだけ瑛里華が言おうとも、実際にこうして再び羽の音が鳴り始めた以上、仕留め損なったのだというより他にない。

 やがて音に続いて、その姿も再び確認できるようになる。
 大きさはほぼ一緒。さっきのモス氏と見て間違いないだろう。力強くありながらもしかし慎重さを決して欠きはしないその飛び方もモス氏特有のものに違いない(適当)。

「しょうがない。蚊に負けたとあっちゃあ、吸血鬼の名折れだからね。
 瑛里華に代わって俺が仕留めてあげよう」
「どんだけ折れやすいのよ、吸血鬼の名前は」

 そんな呟きに、会長は応えることなどしない。椅子から腰を浮かせ、じっとモス氏の動きを目で追い始めた。仕事中より遥かに真剣な表情。それに対し流石のKYも空気を読んだか、モス氏もさっきとは違い必死に不規則な運動を繰り返している。

 しかしそれでもホモ・ルーデンス以上に遊戯に情熱を傾ける、千堂伊織という名の人外に敵うはずもなく。

「――もらったっ!」

 しゅんっ、と虚空で弧を描いた会長の腕。手にはいつの間にやら筆箱が握られており、残像をのこすが如き素早さで、先ほどとは違い一瞬たりとも静止しなかったモス氏をしかし確実に捉えていた。
 そして今度ばかりは、俺も会長もその最後を見届けることができた。ゆらゆら飛んでいた黒い点が、思いっきり机に叩き落とされたのだ。目で追えば、机の上にはむごたらしく横になって死んでいるモス氏の姿。
 ぴくぴくしていて、正直キモい。白ちゃんが居たら卒倒しそうなくらいにキモい。紅瀬さんだったら「気持ち悪いわね」と真顔で言い切っちゃいそうなくらいにキモい。

「まったく、支倉君を落とせても蚊が落とせないんじゃ、吸血鬼としちゃ二流だよ、瑛里華」
「どういう基準よ。それに何よ、支倉くんを落としたって。落としてないわよ別に」
「じゃあ、その魅惑的な身体で”堕とした”とか」
「……そこの蚊と同じ運命を辿ってみたいようね、兄さん」

 いつもどおりこめかみをひくつかせながら、瑛里華がゆらりと立ち上がる。
 俺は思わずそこの蚊呼ばわりされたモス氏の遺体に目をやって――あれ?

「あの、会長」
「なんだい支倉君。少しでも目を逸らすと俺は窓を破って――もとい、たった今征が開けた窓から飛び出て空中散歩を楽しむことになるので、手短に頼みたいところなんだが」
「ええっと……蚊がまだ生きてるみたいなんですが」
「ん?」
「へ?」

 会長と瑛里華の、毒気を抜かれた声が重なる。

「いや、確実に死んでたでしょ、あれは」
「俺もそう思ったんですけど、ほら。
 ……というか、これ」
「え、嘘? さっきより激しく動いてない……?」

 指し示した先。
 息絶えたと思われたモス氏はさっきのぴくぴくが一転、わしゃわしゃとその四肢じゃなくて六肢(?)を蠢かせていて、気持ち悪いことムカデのごとし。なんとなく仰向けのまま、羽根を机にばちばちと叩かせ始めているようにも見える。

 ――そう。
 それはまるで、瀕死の重傷から傷が回復していく過程を見ているかのようで――

「あっ」

 その感嘆は、一体誰が漏らしたものだったのか。
 気付けばモス氏はふわっとその身を浮かび上がらせ、再びぶ〜〜〜んと羽音を響かせて飛び始めたのだ。誰も望んじゃいないのに。マジKY。

「……」

 そうして唖然とする中、しかし、俺は思い出してしまった。
 先ほど瑛里華がモス氏を仕留めたときのこと。蚊が停止した、あの不自然な一瞬。
 まるで命令されたかのように動きを止めたその状態は、まさか――

「お、明るさにひかれてか、出て行きそうだね」
「まあいいわ。そのまま出て行きなさい。そう、そのまま、そのまま外に……!」

 瑛里華の言葉。
 まるでその声に従うように、モス氏はふらふらと窓から外に出て行く。身体が全て出たところで、瑛里華が立ち上がり、ばたん、とその窓を閉じた。

「ふむ。これにて一件落着、だね」

 見届けて、わざとらしくそう言ってみせる会長。
 見ていた東儀先輩、どことなく気難しそうな溜息を吐きつつも頷いて。

「まったく、何か対策考えておかないといけないわね」

 ただ一人事実に気付いていない瑛里華が、そう言ってぽりぽりと首筋を掻いたのだった。

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