マグネシウムで髪を

[Fortune Arterial short story]
「いやほんと、さっきは助かった!」
「そんな、大したことじゃないよ。
 それより孝平くんこそ大丈夫? 疲れてるみたいだったけど」

 俺の感謝に対価を求めるどころか、むしろそうなった原因である俺自身を心配してくれる陽菜。
 事実考え事をしていたとはいえ、そうまで聖母のような対応をされると俺という存在がちっちゃく見えてしまう。いやもうほんと、かなでさんがヨメと言い張るだけはあるというか。

「なあ孝平、さっきって、なんかあったのか?」
「ああ、実は――」

 爆睡していた司が興味を示したので、かいつまんで説明。
 といってもつまりは、俺がぼーっとしている最中にアオノリにあてられたとき、陽菜が俺を助けてくれたということなわけだが。

 説明が終わると、司は「へー」と感心したような顔をして、

「それなら、俺にも教えてくれればいいのに。
 孝平でもいいからさ」
「いいけど、マグネシウムリボンは沸騰した水の中で燃えるかどうか知ってるのか?」
「リボン? 髪でも結うのか」
「そのリボンじゃなくて」

 いや、語源は同じかもしれないけど。
 マグネシウムリボンで髪を結う奴が居たら見てみたい。

「リボン状のマグネシウムだ。欠片というか、薄片というか。
 それが燃えるかどうか」
「は? 水の中なら燃えないだろ」
「ううん、燃えるんだよ」
「マジか!」

 驚く司。
 というか、聞きそびれた質問を教えたところで、質問の答えが分からないのでは意味がない。
 ……そもそも、普通は燃えないであろう状況で「燃えるかどうか?」って聞かれてるんだから、なんというかクイズの常識的な意味で「燃える」って答えるのが普通だと思うのだが。

「なら、最初っから答えを教えてくれればいいじゃないか。
 あるいはほら、『マッチをこするとどうなるか?』みたいに簡単な問題にして」
「いいけど、そこまでいくと昼飯2回な?」
「……やっぱり寝ることにするわ」

 そうなると思った。

 寝るのはダメだよー、と一応言っている陽菜の言を適当に流して、司はふらっと廊下へと消えていった。まるでちょっと軽い用事を済ませてくるような、違和感を何も抱かせないほどの何気ない仕草で。
 そして俺は知っている。今の『寝ることにする』は二重の意味を含んでいるということを。

「まあ司はいいとして、それよりさ、お礼に何か奢らせてもらえないか?」
「え、ええっ?
 いいよそんな、さっきも言ったけど大したことじゃないんだし。孝平くんだって疲れてるときくらいあるよ」
「いやいや、そこをなんとか!
 これじゃ俺の気持ちが収まらん。な、昼飯の一回くらいはさ」
「うーん……」

 考え込む陽菜。もう一押しだ。

「海岸通りにあるラーメン屋のでもいいぞ?」
「え、あ、でも、孝平くんに悪いし……」
「いいって、いいって。
 それじゃ今度の週末にでも奢らせてくれ」
「えと、じゃあ、そこまで言うなら」

 そう言って微笑む。納得してくれたようだ。
 ちなみに口には出さないが、頼むメニューはきっと味噌ラーメンなのだろう。

 そんなちょぴっと失礼なことを考えていると、陽菜は「そういえばラーメン屋さんで思い出したけど」なんて切り出して、

「あそこのラーメン屋さんね、なんかとっても辛いラーメンを始めたんだって。
 お姉ちゃんの友達が行ったらしいんだけど、辛すぎて誰も食べれなかったとか」
「……!」
「へえ。
 陽菜はそれ食うのか?」
「ううん、私はいつもと同じのがいいな。
 あ、でもでも、味噌ラーメン以外も食べるんだよ?」

 いや、そんな恥ずかしげに手を振らなくても。
 そもそも味噌ラーメンだなんて言ってない。……思ったけど。

「まあ、そういうことで、よろしくな。今週末でいいか?」
「うん、いいよ。ありがとね、孝平くん」
「だからいいってば」

 これでお礼の約束を取り付けられたわけで、俺はほっと息を吐いた。
 やっぱりこういうのはちゃんとしておきたい。自分自身に対する戒めとしても。

 ……そしてまた、俺は自分のことに精一杯で、この時気付くことはなかったのだ。
 陽菜が「とっても辛いラーメン」と言った辺りから、背後、コンスタントに響いていた文庫のページを捲る音、それがぴたりとやんでいたことを。



       ○  ○  ○



「というわけで、ナポレオンはイタリア遠征の司令官に任命されたわけだが、あー、そうだな。
 それじゃあ支倉! これは西暦何年のことだ?」
「げ」

 司も何時の間にやら戻ってきた、午後の授業の一発目。びしっとチョークで俺を指し示してくる歴史教師。
 ……またもや聞いていなかった。つくづく今日は調子が出ない。

 情けなく思いながら、やっぱり教室を見渡す。

「Zzz」

 間違えた。あっちじゃない。

「……」

 頼りの陽菜は一生懸命ノートを取っていて、これでは流石に俺のミスにも気付いていなさそうだった。
 というか、陽菜も思わなかったのだろう。俺が同じ日に二度もこんな目に遭うなどということは。もちろん俺だって思わなかったが。

 と。
 とんとん、と背中にまるでシャーペンの背で叩かれたかのような衝撃。同時、右手、先生に見えないくらいに低い位置からノートの切れ端が差し出されて。

「……?」

 目だけを動かして見る。
 ノートの切れ端。流暢な崩し字は間違いなく後ろに座る人の文字なのだが。

”フーリエが代数方程式の実数解の数に関する定理を証明した年”

「……は?」
「どうした支倉、分からんのか?」
「あ、えっと、はい、すみません」
「おいおい、これくらいは勉強しておいてくれよ」

 そうして先生は大仰に溜息を吐いて見せた後、黒板に「イタリア遠征の司令官に任命 1796年」と記した。
 なんだ、そっちなら知ってたのに。

 情けなく思いつつ着席する。
 ……差し出されていたノートの切れ端は、既に引っ込められていた。



       ○  ○  ○



「あー、俗語でアメリカ紙幣のことを色で呼ぶ場合があるが、これが何色なのかは昨日やったから大丈夫だろう。
 よし、支倉! 答えてみろ」
「……」

 二度あることはなんとやら。
 こういう日に限って集中してあてられるあたり、俺もよくよく運がない。もはや教師たちが仕組んでいるんじゃないかと疑うほどだ。

 今度こそ司の方を向かずに陽菜を見るが、やはり陽菜も思わなかったのだろう、俺が同じ日に三度も以下略。
 俺のことを信頼してくれているのは嬉しいのだが、その信頼に答えられない俺をどうか許して欲しい。

 と。
 再びとんとん、と背中を叩かれる。もう慣れたもので、目を先に動かすと、遅れてノートの切れ端が差し出された。教師にバレないよう、そっと見る。

”ベクトル解析において、二重積分と線積分との関係を表す定理”

 ……知るかよ。



       ○  ○  ○



 帰りのホームルームで礼をし、長い一日がようやく終わった。
 疲れているのだ、きっと。夜更かししたわけでもないのにあれほど集中力を欠く理由は、蓄積した日頃の疲れ以外に思い当たる節はない。

「ん……終わったか」

 俺が解放感に浸っていると、大きくの伸びをしながらのそんな声。いつものように額に跡がついているが、うん、なんとなくむかつくから指摘はせずにおこうと思う。いつも寝てる奴が寝ていたことを知られたからとて、大した害もあるまい。
 そしてまた、今度はきっちり起きてたやつが声をかけてきて。

「孝平くん、もしかして体調悪いんじゃない?
 新生活の疲れも溜まってくるころだし」
「やっぱそうなのかなあ?
 にしたって、うーん……」

 もしかしたら、生徒会の役員になったことに、まだ心のどこかが緊張しているのかもしれない。
 けどそうであるなら、その緊張は俺が越えていかねばならない関門だ。積極的な新しい生活、それを貫いていくからにはそういった障害はこれからも多々あるだろうから。

 さてそれで、当の生徒会に今から出向く予定となっている。
 心の中で気合を入れ直し、陽菜に「まあ心配するなって」と声を掛けて、鞄を手に立ち上がろうとしたそのとき。

「支倉君」

 珍しい。背後、紅瀬さんから声を掛けてきた。
 振り向けば、既に立ち上がって今にも帰りそうな紅瀬さんの姿。

「どうかしたの、紅瀬さん?」
「ええ。
 ……貴方、もう少し数学について学んだ方が良いわ」
「は?
 ――え、あ、ちょっと、紅瀬さん!?」

 呆れるような態度でその一言を置き、俺の呼びかけにも応じず、紅瀬さんはそのまま教室から歩き去っていってしまった。
 最初から俺の言葉を聞こうとしない、「また明日」のような挨拶と同様に言い放つだけの言葉。しかも少しだけ怒っていたようにも見える。

 なんだというのだ、一体?

「ねえ孝平くん、紅瀬さんと何かあったの?」

 案の定、紅瀬さんの態度に違和を感じた陽菜が聞いてくるのだが。

「いや、俺にもサッパリ。
 特に何をした覚えもないんだけど」
「あの口ぶりだと、孝平の数学のできなさに呆れ返ったって感じだな。
 なんか紅瀬にとっては下らなすぎる質問でもしたんじゃないか?」
「だからしてな――――あっ!」

 ピンとくる。

「……やっぱり何かあったのか」
「何を聞いたの、孝平くん?」

 いやだがしかしちょっと待て。
 俺がした質問というわけでもなく、しかもあれが「下らなすぎる質問」であるなら、俺の数学の能力は義務教育以下みたいなレベルになってしまうのだが。

 ……とりあえず聞いてみよう。
 司はともかく陽菜は勉強ができそうだし、もしかしたら本当に俺が馬鹿すぎただけなのかもしれない。特に数学はウィークポイントでもあるし。

「なあ、陽菜。実は紅瀬さんにされた数学の質問、というか課題か、があったんだけどさ」
「なんだ孝平、俺には聞かないのか?」
「答えられるなら聞くが」
「無論できん」
「……」

 なぜかしたり顔の司を意識の外へ放り出し、

「『フーリエが代数方程式の実数解の数に関する定理を証明した年』って有名なのか?」
「……え?
 あ、あの、ごめん孝平くん、もう一回言ってくれないかな?」
「『フーリエが代数方程式の実数解の数に関する定理を証明した年』なんだけど」
「……」

 眉をひそめ、首を大いに傾げる陽菜。

「あ、『ベクトル解析において、二重積分と線積分との関係を表す定理』でもいいんだけど」
「………………」

 ……安心した。
 一応俺も義務教育は終了できていたらしい。



       ○  ○  ○



「――というわけなんだけども」

 かくかくしかじか、と説明すると、陽菜はふんふんと俺の話を解釈し直すように頷いたあと、ふにゃっと表情を柔和な笑みへと崩した。その顔はかなでさんのはっちゃけっぷりを見守っているときのそれに近い。……のだが、それがどうして俺に向けられている?

「ねえ孝平くん。
 今週末のラーメン屋さんの話なんだけど、たぶん話をしたらお姉ちゃんも来たがると思うんだ」
「ん?
 ……あー、まあ、言いそうだなあの人は」
「だから、奢ってもらうのはまた今度にしてもらって、週末はただ単にみんなでラーメンを食べに行かない?」
「すごいピンポイントな目的な」

 週末の外出可能日、わざわざラーメンを食べるために海岸通りへ行くとは。
 ああまあ、そもそも陽菜ともその予定だっていえばそうだったか。

「俺は構わないけど。それにかなでさんの分くらいまでだったら俺持つし」
「あ、違うの。
 あのね、ちょっと誘いたい人がいて」
「誘いたい人? 副会長とか?」
「ううん、紅瀬さんなんだけど」
「紅瀬さん……?」

 意外な名前が出た。

「いや、誘っても来ないでしょ、紅瀬さんは。
 前も海岸通りで会ったけどさ、なんか一人で居たがってるみたいだったし」
「じゃあ誘ってみて、オッケーだったらいいかな?」
「俺は構わないよ。
 ……って、あ、そうか」
「ん?」
「いや、なんでもない」

 陽菜が熱心な理由がようやく分かった。
 要するに、陽菜は仲良くなりたいのだ、紅瀬さんと。

 先日のことだったか。俺が自分の身を犠牲にした結果、陽菜は紅瀬さんの髪を三つ編みにできる権利を獲得した。そのときも言っていたはずだ、紅瀬さんとコミュニケーションが取りたいと。
 ラーメンはきっとその口実だろう。個人的にはこの口実でいけるとは思えないのだが、どうやら陽菜は誘いの成功を確信しているらしい。なら、うん、俺が一肌脱ぐしかあるまい。

「それじゃ、夕飯のあとにでも俺が声かけてみるよ。
 それでいいか?」

 さてどうやって紅瀬さんを説得しようか、様々なことを考えつつそう言うと。

「えーっと……そのね、孝平くん」

 陽菜は何か言いづらそうな、すごい困った顔。
 ……あれ? 何で?

「そ、そうそう!
 孝平くんはお姉ちゃんを誘ってくれないかな? かわりに私が紅瀬さんを誘うから」
「……?
 なんでまた。逆のが適任だし、そもそもどっちかしかできないものでもないだろ?」
「うう」

 陽菜が言葉に詰まる。
 いや、そんな困った顔をされても俺が困るのだけれども。

「孝平」

 と。
 そんなやりとりを見かねてか、今まで黙って話を聞いていた司が言葉を挟んできて。

「お前、生徒会はいいのか?」
「え? ――うおっ!」

 時計。
 いつの間にか、想定よりかなり時間が経っていた。急いで鞄を持ち立ち上がる。というかそもそも、まさにこうして鞄を持って立ち上がったところ、紅瀬さんが声を掛けてきてこの話題になったのだ。そこからのタイムロスはそもそもの想定外。時間が経ちもする。

「お前が生徒会に行ってる間に、悠木が紅瀬を誘いに行く。それでいいんじゃないか?」
「あ、うん、うん。そうだね、それがいいと思う。
 孝平くんもそれでいいかな?」
「んー、そうだな。じゃ陽菜、後頼むわ。
 早々遅刻じゃ副会長に何言われるか分からんし、俺は急ぐからこれで!」

 片手を挙げて二人に別れを告げ、それなりに重みのある鞄を肩に教室を駆け出て行く。
 腕時計を見る。既にいびられるのを覚悟せねばならない時間だ。あとはその小言が五分で済むか二時間コースになるかの問題。急がねば。

 俺はさっさとラーメンの話題など頭からどけて、脳内で監督生室までの最短コースを探索し始めた。



       ○  ○  ○



 土曜日。
 外に出る扉を見つけ出し、待ち合わせ場所である寮の出口へと向かって。そこには。

「……ほんとに来てるとは思わなかった」
「は?」
「ああいや、紅瀬さんってあんまりこういう付き合い、好きじゃないかと思ってたからさ」
「好きでも嫌いでもないわ。用があればするし、なければしない。それだけよ」

 着ているのは制服ではなく私服であっても、やはり紅瀬さんは紅瀬さんだった。腕を組んだまま、クールにそんなことを言い放つ。
 非常に明快な論理。しかしそれでも、特別人付き合いを嫌っているわけではないということに俺は安堵して。

 ……いやだがちょっと待て。

「じゃあ今回は用があるってこと?」
「――ッ!」

 指摘すると、紅瀬さんは「しまった」とでも言いたげに目を見開いた後、

「今回はたまたま、気まぐれよ」

 そっぽを向いて、頬を赤くしながらそう嘘を吐いた。

 どうやら今回の「用事」とやら、指摘されると恥ずかしい事柄だったらしい。女の子だからラーメンを食いに行くという行為そのものが恥ずかしいとかだろうか? だとしてもそしたら陽菜だって恥ずかしがるはずだし、失礼ながら紅瀬さんがそういう繊細な乙女心を持っているとはどうにも思えない。
 じゃああれか、俺と一緒に出かけることがとか? ……それはもっとないか。残念ながら。

「けど、貴方もひどいわね。悠木さんに私を誘うように仕向けたの、貴方でしょう?」
「ん? えーっと、どっちだっけな。話の発端は陽菜だった気もするけど。
 でも、どうしてさ?」
「……別に。悠木さんじゃなくて貴方に誘われていたなら、恥ずかしさと悠木さんへの遠慮で断ってたってだけのことだから。
 意図したわけじゃないんでしょうし」
「うん?
 悪い紅瀬さん、さっぱり話が見えないんだけど」
「見えなくていいし、見えないから負い目も無いんでしょう。
 悠木さんも大変ね」

 訳も分からぬまま、紅瀬さんに溜息を吐かれてしまう。
 何か俺の分からない考えが、陽菜にも紅瀬さんにもあるらしい。仲良くなりたいとか、そういうことだけじゃなかったのだろうか?

 考える。陽菜と紅瀬さんの態度。
 何かを考えているとすれば、それはさて何なのか。不可解さの裏には、きっとなにがしかの理由があるはずだ。一貫した理由が。

 そうして思考していると、俺が出てきた寮の扉が再び開いて。

「あ、私が最後だったのかな。
 ごめんね、待った?」

 まだ約束の時間前だというのに、まるで遅刻したみたいに申し訳なさそうな表情で陽菜が現われた。

「いや、俺も今来たところだけど。
 それより陽菜、最後って? かなでさんは?」
「うん、お姉ちゃんも誘ったんだけど、なんか色々勘違いしてるみたいで。私だけ行きなさい、お姉ちゃんは吉報を待ってるから、とか何とか言って来ようとしなかったの」
「つくづくよく分からんな、あの人は」

 きっと分かるのは同類――もちろん吸血鬼という意味ではない――である会長くらいなものだろうし、そうであるなら俺は分からなくたっていいやとすら思えてしまう。東儀先輩の言葉を借りるなら、かなでさんも会長も、ああいう生き物だと思った方が楽でいい。……口にしたら風紀シール5枚は堅いな。

「それじゃ行きましょう。海岸通りで良いのかしら?」
「あ、うん。そうだよ」

 陽菜の返答を見て、紅瀬さんが俺たちに先立って颯爽と歩き出す。
 珍しい。渋々ついてくるどころか、むしろ先んじるとは。

 だからその積極性もまた、不可解。
 それゆえ無理にでも可解にしようと頭を必死にこねくりまわして。

 ラーメン屋。
 紅瀬さんの好み。
 その、共通項は。

「――ああああああっ! そうか!」
「え!?
 あ、えと、ど、どうしたの、孝平くん?」
「分かった! ようやく分かった!
 紅瀬さんさあ、もしかして激かr――」
「違うわ」

 返事早ッ!
 っていうか振り向いた速度が尋常じゃない。

「あ、そうか、紅瀬さん、陽菜の言ってるラーメン屋がどこにあるか――」
「だから、違うわ」
「なんだ、それならそうと言ってくれればいいの――」
「違うと言ってるでしょう?」

 むすっとしながら、しかしやはり目を逸らして、いつものフリーズドライとはまったく違うその態度。黒髪の隙間に除くその頬は、再び朱に染まっている。これのどこがフリーズドライか。

 これには俺がフォローするより先、陽菜がその優しげな笑みと共に紅瀬さんの隣へと駆け寄って。

「ねえ紅瀬さん。私ね、――――――」
「――――――」

 何ごとか話し始める、陽菜と紅瀬さん。
 陽菜のいつもの笑顔に対し、紅瀬さんの表情も恥ずかしそうなそれから段々と落ち着いていった。おそらく自分の嗜好についての話だと思った紅瀬さん、そのアテが外れて困惑した半面、安堵したに違いない。

 そしてまた、陽菜に対するその態度は副会長に皮肉を言うときのそれでも、かなでさんの騒々しさに困惑したときのそれでも、ましてや誰かを邪険にするときのそれでもない、相手を気遣っていることがよく分かる態度だった。白ちゃんに対するそれに近いものがある。

 きっと、激辛ラーメン自体がどうというわけではないのだ。その取っかかり、わずかに見せた紅瀬さんの「感情」を、陽菜は見逃さなかった。おそらく無意識だろう、紅瀬さんが再びフリーズドライとしての殻を構築するより先、陽菜は彼女をフォローして。
 陽菜の凄いところに、誰とでも仲良くなれるというものがある。あの容姿だ、異性に好かれるのは当然としても、同性の付き合いもかなり広い。陽菜の性格と人当たりの良さによるものだろう。

 陽菜はそもそも人と仲良くするのが好きなのだ。だから紅瀬さんとも仲良くなろうと頑張ったし、その結果としてあれほど人付き合いに無関心だった紅瀬さんとこうまで話ができるようになっている。
 紅瀬さんにとっても、人気者の陽菜と友人ということになれば他の生徒たちとの関係性も変わるだろうし、それは良いことだと俺には思える。そしてまた俺がそう思うのは、あの転校生活とおそらく無関係ではないのだろう。

「あ、紅瀬さんも? 私はいつも――――――」
「そうかしら? 私はそれほど――――――」

 会話をする二人を見ていて、思う。

 紅瀬さんの流れるような長い黒髪。
 もしかしたらあの髪は、夕方頃までには三つ編みになっているかもしれない。それは陽菜と紅瀬さんのコミュニケーションが一歩進んだ証として。

「……ああ、そうか」

 とすれば、その三つ編みは。
 すべてのきっかけとなった、アオノリが言ったあの”リボン”が結ったことになるのかななんて。そんなことを思ってみたりもするくらいには、俺の心は軽くなっていた。

 多分、嬉しいのだ。
 陽菜が紅瀬さんと仲良くできたことと、紅瀬さんが副会長以外と仲良くできていることが。

「さてそれじゃあ、そろそろ行こうか?
 あ、ねえ孝平くん。雑貨屋さん行こうって話になったんだけど、いいかな? その後ならちょうどお昼時かなって思って」
「紅瀬さんがいいっていうなら、俺は構わないよ」

 楽しそうに手を合わせる陽菜と、当然だと言わんばかりの紅瀬さん。
 この短時間でこうまで仲良くなる辺り、もはや天性と言ってもいいかもしれない。あるいは相性が良かったか。

「それじゃ悠木さん」
「うん、任せて」

 陽菜に続いて、その隣に紅瀬さん、一歩遅れて俺の順番で歩き出す。
 今日の外出は、きっとこの三人の誰にとっても楽しいものになるんだろうなと、そんなことを二人の後ろ姿に思いながら。


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Short Story -Fortune Arterial
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