MATHS NOTE

[Fortune Arterial short story]
「えっと、それがね、孝平くん。
 私もお姉ちゃんも、数学ってあまり得意じゃなくて……。だからごめんね、他の人のノートを借りてくれるかな?」

 申し訳なさそうにそう言ってくる陽菜。
 その瞬間、俺の腹は決まった。

 ――フリーズドライ・紅瀬桐葉から借りるしかない、と。



       ○  ○  ○



 数学は嫌いじゃないが、得意でもない。転校生という性質上、持続的に学習することが今までずっとできていなかったからである。
 では試験はどう乗り切っていたか?
 そんなもの、ある意味では聞くまでもない。理解できないなら、覚えるだけだ。試験が終われば忘れてしまって構わないから、とにかく覚えていた。語呂合わせだってなんだっていい。ギリシャ文字は読めなくたって書ければいい。そのくらいの意気込み。そしてまた、普通の定期試験の数学程度ならそのくらいでどうとでもなった。

 が、それはそこら辺の一般校の人畜無害な転校生の話であるわけで。
 全寮制の進学校の、しかも生徒会役員が取ることのできる方策ではないのだ。

 ただでさえ他所より難しい問題、いつも通りにやったら悲惨な点数になるのは目に見えている。
 そしてまた、悲惨な点数を取ったら俺が悲惨な目に遭うこともまた目に見えているのだ。いや、遭わされる、が正しいか。副会長に何言われるか分かったものではない。積もり積もった日頃の不満、それを上乗せされた説教を喰らっている俺の惨めな図が容易に想像できる。

「……よし」

 朝。身支度を整えながら、カレンダーを見る。
 今日は金曜日。試験は月曜日だから、ノートを借りるとしたら今日借りて明日返すしか方法はない。まさか明後日まで借りっぱなしというわけにもいかないだろうし。

「おーい、孝平。メシ行こうぜ」
「ああ、今行く」

 ちょうど制服を着終えた頃、部屋の外から司の声。充電していた携帯と生徒証を確認し、鞄を手にとって、さっさと部屋を出た。



       ○  ○  ○



「うわっ、随分混んでるな。こりゃ別々の方がいいか?」
「だな。んじゃ、また後で」
「ああ」

 それぞれ朝飯を頼んだ後――ちなみに俺も司も鮭定食だ。いつも焼きそばやエビチリを食っているわけではない――、空席がほとんど見られないことから俺と司は一端別れた。
 混んでいること自体はそう珍しいことでもない。特に朝は昼と違って教師や職員も同時間帯にここを利用とするため、混雑することが多々ある。誰しも朝はギリギリまで寝ていたいものなのだろう。

 そういうわけでまだ湯気の立っている定食のトレーを持ったままふらりふらりと席を探していると、窓際の一角、四人掛けのテーブルに一人しか座っていない場所を見つけた。
 心持ち急いでそのスペースへ。声を掛ける。

「あの、相席いいですか?」
「……」
「えーっと……って、紅瀬さん?」
「あら」

 名前を呼ぶと、初めて呼びかけに気付いたように振り返った。テーブルが空いていた理由を何となく察する。
 無言のまま断られたと勘違いしたであろう幾人かの生徒たちに哀悼の意を捧げつつ、紅瀬さんの斜め前の椅子へと着席した。彼女は嫌なら嫌と言う。だから無言であるというのは、一応は肯定の意味なのだ。あるいはまた、無関心というか、要するにどーでもいいのかもしれないが。

 しかしこれはチャンスではなかろうか。
 教室での紅瀬さんは、俺のことをそりゃもう道端の石っころ程度にしか思っていないが、少なくともこの状況であれば逃げられることはまずない。切り出してみる価値はあるだろう。

「そういえば紅瀬さん。
 唐突で悪いんだけど、実は頼みがあるんだ」
「お断りするわ」
「へ?」

 気分はとりあえず外角ストレートで様子を見ようとしたら先頭打者ホームランを打たれた先発ピッチャー。支倉、マウンド上がっくりー!

「頼み事、というのは対価があってこそでしょう?
 貴方が私に何を頼む気かは知らないけれど、私が貴方に期待することは何もないもの。交渉にすらならないわ」
「え、あ……まあ、そうかもしれないけど」

 言い淀む俺にも関心はないか、視線を外して再び自分の朝食へと戻る紅瀬さん。
 右手の箸が突き刺さった先は燃え上がるように真っ赤な焼きそば。

 ……真っ赤な?

「まだ何かあるの?」
「いや、えっと……それ、何焼きそば?」
「何って、ただの焼きそばだけれど」

 何を聞いているのかお前は、と言う目で見返される。

 しかし、そんなはずはない。「初めての食堂ではとりあえず焼きそば類をチェックする」という機能を備えている俺にとって、見間違いはありえない。○○食堂の××焼きそば、と言われればすぐさま見た目と味を思い出せるほどの俺が、つい最近自分が食べた焼きそばを分からないなんてことは、普通、あってはならないはずだ。

 だが眼前の紅瀬さんの態度は嘘をついているようにも思えず、俺から再び視線を落として真っ赤になった焼きそばを平然と食べ始めた。
 ……うん、麺の太さや長さは、見る限りにおいてただの焼きそば(230円)と同じように見えるのだが。

「……もしかして、七味?」
「どうして貴方に、私が朝食に使った調味料を答えなければいけないのかしら。
 まあ、どのみちその瓶を見れば分かるでしょうけど」

 紅瀬さんが視線で示した先には、唐辛子の瓶が二本。片方は空瓶で、もう一方も半分程度まで使われていた。どんだけ。

 唐辛子だと分かって再びその真っ赤な焼きそばへ視線を戻すと、なんというかもう、焼きそばの哀れさと赤の強烈さで、見てるだけで気分が悪くなってくる。

「貴方、本当に人を観察するのが好きね。
 いくら私でも、食事をあからさまに見られるのは心地良いものではないのだけれど」
「ああ、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。
 えっと、要するに……美味しいの?」
「わざわざ不味くする方向に、調味料をかけたりはしないわ」
「いや、まあ……」

 正論過ぎてぐうの音も出ない。

 結局紅瀬さんはそのまま視線を外し、真っ赤な物体を食べることに集中し始めてしまった。
 俺も更に声をかけても不愉快にさせるだけだと思い鮭定食に手をつけ始めたのだが、味噌汁を啜るその瞬間にちらっと見た紅瀬さんの顔が、どことなく上機嫌に見えたのは気のせいではないだろう。

 ……というわけで、紅瀬さん情報ゲット。朝はあの真っ赤な物体がお好みらしい。



       ○  ○  ○



 微睡みからの覚醒というのは、いつも唐突だ。

 いや、実際には何かを感じていることを感じていることもあるが、それを自覚できることはなく、自覚できたときには既に覚醒している。
 だから俺も、ふっと上がってきた意識、それを自分が捕らえたときには一気に思考が走り出し、深い眠りについていた自身の迂闊をすぐさま悟っていた。

 言い訳させてもらえば、昨日は夜遅くまで自力で数学の勉強をしていたのだ。参考書すらなく、教科書と自分のノートしかない状態で、一応俺なりには頑張ったと思う。特に和積と積和を暗記できたのは快挙といって差し支えない。副会長や紅瀬さんに比べれば微々たるものかもしれないけど、俺にとっては大きな一歩だ。
 しかしまあ、だからといって教室で寝てしまうのはどうかとは思うが。

 あ、ちなみに授業中に寝入ったわけではない。断じてない。授業が終わった時点で寮まで戻る気力がなく、掃除の人に断って仮眠をとらせてもらったまでのことだ。
 そりゃそうだ、授業中に眠ったなんてことになれば、副会長にどんな説教を喰らうか分かったものではないのだから。きっと積もり積もった日頃の――って、さっきも想像したなコレ。

「ん……」

 聞こえてくる音から考えて、どうやら掃除は終わっているようだ。
 だからいま何時か見ようとし、顔を上げたところで。

「あら」
「……」

 目があった。

「……」
「ええっと……紅瀬さん?」
「……ふっ」

 にやっと笑い(あるいは嗤い)、すたすたと俺の背後、自らの席へと戻っていく。
 どんなリアクションだよ。

 どうせツッコミ待ちだろうから、そのまま時計へと視線をずらせば指し示す時間は夕食時間のちょっと前。窓からは西日が差していて、掃除どころか部活すら終わっている時間だ。正味で三時間弱寝ていたことになる。どう見ても寝過ぎだ。

 ぐっと伸びをしつつ、背後で自分の鞄を掴んだ紅瀬さんに声を掛ける。

「もしかして、待っててくれたの?」
「どうして私が貴方を待つ必要があるのかしら?」
「いや、冷静に返されると辛いんだけども」

 紅瀬さんは少し笑って、

「戻ってきたら、貴方が寝てたのよ。
 誰もいないと思っていたから、少し驚いたわ」
「ああ、紅瀬さん、六時間目も居なかったっけ」
「ええ。
 あとは朝の返礼がてら。良い寝顔だったわ。悠木さんあたりに見せたいくらいに」
「なんでそこで陽菜なのかは分からないけど、あー、朝って」

 つまり彼女はこう言っているのだ。朝、食事中じっと見つめられていたお返しだと。随分と奇異なやり方だと思う。俺よりずっと珍奇じゃないか? ああでも、例えば珍奇な人間が二人居たら、それは互いが互いを珍奇だと思うわけで、となると……うん? なんだかよく分からなくなった。

 俺が一人で混乱しているうち、そのまま紅瀬さんは挨拶もせず、すたすたと教室の出口へと歩いていった。手に持つのは自らの鞄。それはそうだ、どんな学生であれ、今日は金曜日。週末通しての置き勉なんてできるわけ――

「あー!
 紅瀬さん、紅瀬さんっ」

 くるっと振り返った顔は、呆れたようないつもの表情。

「そんなに叫ばなくても聞こえるわ。まだ何か用?」
「そう、用っていうか、頼みがあるんだよ!
 今朝も言ったけど――」
「それなら私も今朝断ったわ。それじゃ」
「いやいや!」

 ナチュラルに踵を返そうとした紅瀬さんをなんとか押し留める。
 遊ばれているのか、これが素なのか。おそらく後者だとは思うけど。

「今朝も言ったように、私にメリットがない申し出を受けるつもりはないわ。
 それとも何か用意できたの? 例えば……そうね、遅刻を咎められなくなる権利とか」
「そんなの用意できるわけ……。
 あ、そうだ、俺の寝顔見たこととかでどう?」
「は?」

 真顔で聞き返された。

「いや、いい。
 じゃああれだ、俺の命でどうだ! 貸してくれなければ死ぬ!」
「何を貸して欲しいの?」
「紅瀬さんの数学のノートを! ……って、あれ、いいの?」

 言うと、紅瀬さんは手近な机に鞄を置いて、一冊の大学ノート取り出してくれた。俺は立ち上がって、思わず両手で受け取る。
 ぱらぱらとめくれば、少なくとも書道の時間以外は見ることのない崩し字の連続と、定規やコンパスを使ったのではないかと思うくらい精密な図やグラフ。裏表紙の端っこにも流れるような字体で「数学 紅瀬」と書いてあった。本物だ。

「いいのか? でも、どうして?」
「貴方の命はどうだっていいけれど、ノート程度でこれ以上時間を奪われるのも無駄だと思ったのよ。
 一方的にデメリットを押しつけて、その解消を交渉材料に使う。貴方、脅しの才能あるわよ」
「え? いや、そういうつもりじゃ……」
「明後日、貴方が絶対に部屋に居る時間に返してもらいに行くわ。
 それじゃ、また」

 今度こそ身体を反転させ、長い髪を靡かせつつ教室を出て行く紅瀬さん。手元に残されたのは一冊の数学ノートだけ。
 帰って行った紅瀬さんの表情から感情を読み取ることはできなかったが、悪いことしたかなと反省しようとしたものの、とあることに思い至る。
 そもそも紅瀬さんが俺の寝顔なんぞ見ておらずさっさと帰っていれば、紅瀬さんにとってみればノートを貸す羽目にはならなかったはずだ。時間が勿体ないからという理由でノートを貸してくれた彼女が、ぼんやりと人の寝姿を見ているというのもどこかおかしい。

 そして、だからこそ思う。彼女はきっと、朝の俺の頼み事を気に掛けていてくれたのではないだろうかと。
 もちろん俺の勝手な思いこみだし、よしんば本当にそうだったとしても、俺の頼み事が数学ノートであり、その結果について紅瀬さんがどう思っているかは分からない。

 でも、それでも彼女が数学ノートを貸してくれたというのは事実。俺はノートそのものより、紅瀬さんが貸してくれたということにどことなく嬉しい心地になりながら、帰り支度を済ませ、教室を後にした。

 もちろん、借りたノートは他と混ざらないよう鞄の一番奥へと丁寧にしまい込んで。
 きっと今夜の勉強ははかどるだろうなと、そんなことを思いながら。


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Short Story -Fortune Arterial
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