[Fortune Arterial short story]
 食卓に並べられた料理の数々に、瑛里華はその瞳を大きく見開いた。
 ……週末。月に幾度かの家族団らんの日。無論伊織がここに顔を出すことはないのだが、それでも瑛里華は、そして迎える側である伽耶もそうだろうが、週末のこの夕食を何よりも重要なことだと認識していた。瑛里華にとっては二十年近く生きてきた人生で初の、伽耶にとっては二百五十年ぶりの、永くに渡って存在し得なかったそんな家庭の温かさ。始めはひどくぎこちなく、孝平なしでは会話もおぼつかなかったものの、今ではお互いすっかり肩の力が抜けている。伽耶はまだ家事もままならなかったが、瑛里華はそれすらも楽しく感じていた。
 そうして今日。忙しかった生徒会の仕事が終わり――こういう日に限って人手が少なかった――家に着いた瑛里華が見たものは、いつも食事時に使っている和室、その食卓の上に広がる色とりどりの料理の品々だった。だから彼女は驚いた。
 まずはその量。ただでさえ二人では広いその欅製の座敷机の上に、料理を載せた西洋皿が所狭しと並べられていた。どう見ても二人で食べきれる量ではない。普段の倍はあろうかという数だ。
 そしてその内容も豪勢だった。普段は比較的質素――伽耶の昔の生活の名残をのこすと、どうしても今の価値観からは質素に見える――な食べ物が並ぶことが多いのだが、今日は違う。鯛や鮪の刺身に始まり、ほうれん草の和え物やサンマの塩焼き、鶏の唐揚げなどもあり、手前には当然のように味噌汁と白いご飯。立ち上る湯気が早く席に着けと誘っているかのようですらある。
 更に最後。最も驚くべきはここだろうが、これだけの料理、瑛里華が帰宅前に用意してあったということはつまり、すべて伽耶が用意したということになるのだ。
「凄いわ、母様。どうしたの、こんなにたくさん?」
 瑛里華が視線を上げて、台所から漬物の皿を運んできた伽耶へと声をかけた。瑛里華は気付かなかったが、既に瑛里華の驚きようを目にしていた伽耶は、どこか恥ずかしげに、しかし満足そうに答えを返す。
「いやなに、たまにはこういうのも悪くは無かろう。多少手を借りはしたがな」
「手を借りたって……紅瀬さんに料理でも教わったの?」
「教わりもしたが、今日のこれはもっと直接的だ。だいたい、やけに生徒会の人手が足りなかったとは思わないか? あいつらなら、今日はお前を早く帰すくらいのことはするはずだろう?」
「え――まさか」
「そういうことだ」
 伽耶が少しだけ目尻を下げる。対して瑛里華は、大きく天を仰ぎ。桐葉と孝平、そしておそらくは白も。それらの余計なお世話に対し、瑛里華は少しばかりの不平と、大きな感謝の念を抱かずにはいられない。温かい家庭の、暖かい食卓。上を向いたせいで電球の光をもろに浴び、瑛里華はちょっとだけ涙が出そうになった。不意打ちはひどいわ、そんな言葉が口から漏れる。
「ほら、さっさと席に着け。これで三人揃ったからな。食べるぞ」
 伽耶はそんな瑛里華の様子に微笑みを浮かべた後、何ごともないようにそう言ってさっさといつもの座布団へ腰を降ろした。その態度がぶっきらぼうに変化したことに、今まで様子を黙って見守っていた”三人目”はいつも通りにやや苦笑。当然瑛里華はそれに対しても目を見張った。料理に目を奪われていたせいでまったく気付かなかったのだ。視界のすぐ外に、見慣れた人物が崩れた姿勢で座っていたことを。
「や、瑛里華」
「兄さん!? どうしてここに……!」
「おいおい、折角来たのにそりゃないだろう。それともあれか、勘当された息子は敷居を跨いじゃいけないって言うのかい?」
「え、あ、でも……」
 瑛里華は言葉を詰まらせ、その目は自然と伽耶へと移される。しかし明らかな疑問はその視界で頬を赤くしている伽耶ではなく、楽しげにくつくつと笑う伊織によって回答された。
「何だか知らないが、どうしてもと言うんだ。これで来なけりゃ征になんて言われるか。……もっとも、誰かさんの料理を見物したかったっていうのもあるけど。どうせタダだし」
「ふん、人の料理を見せ物か何かのように。お前のように安い舌には、あたしの手料理は合わんかもしれんな」
「それもそうだ。親からは輸血用血液しかもらわず育ってきたからね」
 途端に始まる、いつも通りの辛辣なやりとり。瑛里華はそれを即座に宥めながらも、それでもここから出て行く素振りは見せない伊織に対し、内心かなり驚いていた。そもそも伽耶が伊織を誘うこと自体がおかしいし、例え素直にそれを承諾したわけではないにしろ、形式上は伊織がそれに応じたこともまた不思議だった。何か企んでいるのではないか、なんてことも頭をよぎる。
 だが、と瑛里華はこうも思う。それでも家族がこうして一緒の食卓につけたこと、その事実自体は大きな進歩なのではないかと。気持ちの変化はまず形から。どのような思惑があれこの食卓自体は決して嘘ではない。そう解釈し直すと、瑛里華は笑みが零れるのを抑えることはできなかった。
「ほら、母様も兄さんも、喧嘩しないで――とは言わないわ。ただ喧嘩してでもなんでもいいから、さっさと食べましょうよ。冷えて美味しくなくなるのは、誰だって嫌でしょう?」
「……む。それもそうだな。この男がどう感じようとどうでも構うまいが、あたしと瑛里華がこの料理をまずく感じるのは、あたしの本意ではない」
「おっと、それじゃあ食べない方がいいんじゃないかい?」
「何が言いたい、伊織?」
「まずい食べ物は、温かさに関係なくまずいってことさ」
「ふん。これをそう感じるのであれば、お前の味覚が桐葉以下というだけだ」
 相変わらず言葉の応酬は収まらず、しかし伽耶は席に着き、伊織もそこから立つような真似はしない。瑛里華もそれぞれの間に収まるようにして――つまりは伽耶と伊織が対面する形――全員の着席が完了。しかしさていざ食べ始める、そういう雰囲気になりかけたところで、瑛里華は気になったことを伽耶へと問うた。
「ねえ、手伝ってくれたっていう紅瀬さんたちは、もう帰っちゃったの?」
「ん? ああ、まあ、な。気を使ったのかもしれんし……うん、いや、気を使ったんだろう」
「そう。一緒に食べていけば良かったのにね」
「……」
 何気ない瑛里華の言葉に、伽耶は押し黙り、普段であれば茶化すはずの伊織も何かを口にすることはなかった。瑛里華は何気ない疑問が解消したことで、視線を再び湯気立ち上る料理の数々へ。伽耶はほうと息を吐いて、それに対し伊織が探るような目を送っていたことも、瑛里華はついぞ気付かなかった。家族の団らんが、それほどまでに嬉しかったのだ。
「ごめんなさい、なんか流れを切っちゃったみたいで。じゃあ、母様」
「うむ」
 二人して箸を手に取る。いつもやっている、ご飯を食べる前のかけ声。なんとなく一体感が生まれるこれを瑛里華は特に気に入っていた。家族や親しい間柄としかできないこの仕草。手を合わせ、少しばかり目を瞑り。瑛里華は伽耶の息を聞き取って、合わせるように声を出す。
「いただきま――」「いただきま――」
「あ、これ美味いな。紅瀬ちゃんかな?」
「――って、おい」
「ん? ああ、いただいてます、と」
 言って、唐揚げに続き刺身をひょいっと口へと放り込む伊織。「これは切れ味がイマイチだから支倉君か」なんて好き勝手な感想を述べつつ、更に次の料理へと手を伸ばす。そこまで来て、黙っていた伽耶がついに吼えた。
「お前、母親に先んじて料理に手をつけるとは何ごとだ! それはあたしが桐葉に頼んで取ってきてもらった――」
「お、カキ発見」
「――っ! ええい、不届きものに食わせるカキなぞないわ!」
「あ、卑怯な! 届かないだろ、それじゃあ!」
「ふふん、なら届くあたしが食べるから安心せい。お前は目の前の刺身のツマでも食っていろ」
 やいのやいの、とすぐさま始まる争奪戦。伊織は知って知らずか伽耶が作った料理も平然と食べていき、伽耶は伽耶でそれを殊更気に掛けることもなく伊織への嫌がらせに終始している。食卓はいっきに戦場と化し、ついには「お、肉だ」「させるか!」「残念、食べるのはサンマでした」「なんだとー!」などといった頭脳戦の様相も呈し始めた。
「あ、それは瑛里華が帰る前から狙ってたのに!」
「先手必勝はお前からやってきたことだろう? 配膳したのは誰だと思っている」
「相変わらず汚い手を使うこって。んじゃこれは俺が」
「んなっ!? お前という奴は……!」
「先手必勝、先手必勝」
 そうして結局は手玉に取られていく伽耶と、食べるためというより伽耶をからかうことが主体となってきた伊織の、やっぱり少しだけ棘のある応酬。ある意味では穏やかとはほど遠いそんな喧嘩を見ていた瑛里華はしかし、料理に手を伸ばしたところで視界が滲んでいることに気が付いた。かちん、と箸が料理皿から離れた場所でかち合う。その音で、二人はようやく瑛里華の様子に目がいった。
「瑛里華、お前――」
「あーあ、母親が娘を泣ーかせた、泣ーかせた」
「な、泣いてないわよっ! もう、変なこと言わないで!」
 伊織の言葉に対し瑛里華はすぐさま目元をさっと拭いて、今度こそサラダをその箸へとしっかり収めた。なかばヤケクソ気味にそのままそれを口へと運ぶ。その様子を、伊織は監督生室に居るときと同様の、少しだけにやついている楽しげな笑みを浮かべながら見守っていて。
 ――結局、今度は伊織すらも、伽耶が複雑な微笑みを浮かべてそれを見ていたことには気付かなかったのだった。



       ○  ○  ○



 深夜。
 孝平は、突然鳴り始めた携帯電話の着信音で目が覚めた。聞き慣れたその音も今はやかましい騒音でしかない。寝不足の朝の目覚まし時計、それと同じくらいの不快感を覚えながらも、しかし孝平はベッドから這い出て机の上にある携帯へと手を伸ばす。下らない用事だったら文句の一つも言ってやろう、そんなことを思いながら光る携帯の液晶を見ると、着信名は千堂瑛里華。すぐさま電話に出る。伊織や司ならまだしも、瑛里華が冗談でこんな時間に実家から電話をするわけがないと、孝平は思ったからだ。
「もしも――」
「孝平! 母様が、母様が……っ!」
 孝平の声を遮り返ってきたのは、普段の落ち着き払ったそれではなかった。乱れた言葉に事の重大さをすぐさま察知し、孝平は携帯を左手に持ち替えつつ部屋の明かりを点灯。明るくなった部屋、少しだけ視界の揺れを感じつつも、孝平は横目で時刻を確認しながらまずは瑛里華を落ち着かせることにした。そうして二、三言葉を交わすうちに瑛里華もゆっくりと落ち着いていって、事の次第を説明した。孝平は絶句するより他にない。
「……つまり伽耶さんが」
「ええ。それでどうしていいか分からなくって、兄さんに任せているうちに私は孝平に電話をかけて」
「東儀先輩に連絡は?」
「兄さんがしたところ。実家に居るみたいで、すぐ来るって。でもその頃には――」
「……」
 孝平は言葉に詰まる。
 瑛里華の胸中はその口調からだけで充分に理解できた。そしてその説明で、だいたいの事情も飲み込めた。だから声が出なかった。何が起こったのか分かったからこそ、瑛里華に安易ななぐさめの言葉をかけることができなかったのだ。電話の向こうでは、愛する相手が悲痛なそれに耐えているというのに。
「ねえ、どうしてなのかな? こんなの、こんなのって……!」
「瑛里華、待っててくれ。すぐに俺も行く。紅瀬さんにも俺から言っておくから」
「うん。お願い、早く来て、孝平」
「ああ。分かってる」
 瑛里華が電話を切ることに躊躇いを感じているのを分かっていながらも、孝平は一度携帯の蓋を落とした。そして再びそれを開き直し、リセットされた画面からあまり頻繁にかける番号ではないそれを呼び出す。せめて強制睡眠中でなければいいが。そんな思いが通じたか、六度目のコールでついに相手が電話に出た。少しだけ遅かったのは、おそらく自分と同じく寝ていたためだろうと孝平は推測する。
 そしてその考え通りか否か、電話口の声はすこぶる不機嫌なものだった。
「支倉君? こんな時間にかけてくるなんて、リーマン予想の完璧な証明でも聞かせてくれる気かしら?」
「そのなんとか予想ってのがどれだけ凄いのかは知らないけど、俺たちにとってはそれ以上に重要なことなのは間違いない。悪いけど、落ち着いて聞いてほしい」
「私は最初から落ち着いてるわ。少なくとも、リーマン予想の概要を口頭で説明するのが困難なことが理解できる程度には冷静よ」
 桐葉の複雑な言い回しに、孝平は自らが若干急いていたことを自覚した。意図的に声のトーンを落としつつ言葉を返す。なんて言おうか迷わないわけでもなかったが、相手はあの紅瀬桐葉、直球が一番間違いないだろうと判断して、結局は単刀直入かつ簡潔に、

「伽耶さんが、自殺したって」

 言い切って、孝平は電話の向こうの気配を探る。返答はない。話を続けることにした。
「胸に、いつも持ってた短刀が刺さってたらしい。瑛里華が夜中、ちょっと様子をのぞいたら既にそうなってたって」
「……伽耶が、自刃?」
「どうも遺書めいたものもあるらしいから、間違いないみたいだ。会長もそこに居るし、今東儀先輩が向かってるって言ってたけど、瑛里華が言う分には……」
 もうダメだろう。そこまで言う必要を感じずに、孝平は言葉を切った。返ってきたのは長い沈黙。驚きか、あるいは他の感情か。電話を隔てた無言のそれがどれであるのかなんてことは、孝平に分かろうはずもなかった。
 そうしているうち、やがて桐葉が口を開く。
「行くんでしょう?」
「え? ああ、もちろん。暗いから時間はかかるかもしれないが、行かないわけにはいかないさ」
「着替えは?」
「すぐ済むけど……それが?」
「すぐに着替えてベランダに出なさい。今から行くわ」
「今からって――ちょ、紅瀬さん!?」
 叫んだところで、切られた電話の向こうに声が届こうはずもなく。釈然としないものを感じながらも孝平はさっさと着替えて、無音の自室で桐葉を待った。寮の性質上、孝平が桐葉を迎えに行くことはできない。逸る気持ちを抑えていると、数分としないうちにコンコンというノックはドアではなくてベランダの窓から。
 これには、かなでかと思った孝平は大いに焦った。即座に自室の明かりがついていてかつ自らが私服であることの言い訳を十個ほど脳内に並べ立て、おそるおそるカーテンを開ける。
 当然、そこには不満顔の桐葉が立っていた。窓を開け放つ。
「貴方ね、ベランダで待っていろと言ったでしょう?」
「ここに来るってそういうことだったのか……てっきりドアからかと」
「貴方をからかう時間も惜しいわ。掴ま……面倒ね、抵抗しないで力を抜いていればいいわ」
「へ? ――へっ!?」
 孝平には、何が起こったのか咄嗟に判別がつかない。視界が下に向いたと思ったら、次の瞬間には虚空を舞っていた。そんなところになるだろうか。
「紅瀬さん、靴とか鍵とかどういう体勢なのかとか――」
「喋らないで。噛むわよっ!」
 どん、と強烈な破砕音に続いて再び身体は空へと舞い上がる。そう、つまりは孝平は、桐葉に抱えられて猛然と中空を駆けていたのだった。軽やかな放物線を描く桐葉の飛翔も、小脇に抱えられた孝平にとってはジェットコースターさながらの壮絶体験でしかない。着地、跳躍、着地、跳躍。森の木々を軽々と越える高さを連続で飛び跳ねていく様子は間近で見ても実感しがたいものだったが、それでもそのスピードが異様であることくらいは孝平にも分かった。地面との急速な接近と離脱を繰り返すうち、やがて目的の洋館の姿が暗闇の中見えてくる。圧倒的な早さだった。
「支倉君、千堂さんたちは?」
「ああ、たぶん離れの方だと思う。料理を作った建物の辺りのはずだ」
「了解っ!」
 再び地面を蹴りこみ、孝平と桐葉は離れの屋敷へと向かった。



       ○  ○  ○



 ――そこに、地獄は在った。
 お香の匂いも消えかけていた離れの屋敷。しかし今、そこは粘つく死臭に充ち満ちていた。視界すら紅に染まるほどの強い血の香りがその場の全てを支配していて、例え誰であれそこに生命としての感覚を揺さぶられずにはいられない。匂い以外は普段通りの様相を保っていることがなおさら不均衡感を醸し出している。
 そんな離れの屋敷を孝平と桐葉は進んでいき、最後は血の臭いに誘われるまま廊下の奥の襖に手を掛けた。どちらからでもなく二人は目配せ。奥がきっと「そう」なのだと、どこか確信めいた予感が孝平にはあったし、おそらく桐葉にもあったのだ。躊躇っていても始まらない。桐葉に先行し孝平はその手に力を込め、厚い襖を開け放ち――そこに、地獄を見た。
「……っ」
 明かりの落ちた部屋。開けた襖、自らの背方向から差し入る一条の赤い光だけがその地獄をひっそりと照らしていた。視界に意識を回そうとした矢先、孝平を刺激したのは鼻をつく強烈な臭い。吐き気を催すほどの不快感と共に視界は再び血に染まり、そしてそれが錯覚でないことを孝平はすぐに悟った。差し入る光。照らされた部屋はそのいずこの場所もが黒ずんだ紅で、それが血であることは考えるまでもないことだった。床は畳の溝が見えないくらいに凝り固まった赤でその全てが覆われており、そしてその血はただ床だけに留まらない。壁面、そして天井までもが、部屋のある一点からそれが激しい勢いで噴出していたことを物語っている。無論孝平が開けた襖の戸、そこにもやはり飛び散った血が付着していた。それはまるで、壊れたホースがぶちまけた水の跡のよう。しかもそれが血であるならば、異常としか――地獄としか言いようのない光景だった。
 そうして、孝平たちとは反対の壁、その地獄絵図の中央。あたかも自らから広がる赤い翼が如きそれら全てを描画したその人物が、ただただ静かに壁へとその背を預けていた。その胸には、まるで打ち付けられた杭の如く差し込まれた短刀。
「信じられない……っ! こんな馬鹿なこと、本当に……!」
 一通り状況を見定めた桐葉が、押し殺しきれなかった感情を言葉と共に吐き出した。孝平も何かを言いたかったが、しかし声は喉元でなんとか止めておく。事実が事実である以上、ここで何を言ったって始まらない。それに、言葉にすることで己の感情が決壊してしまうのも怖かった。誰かを罵りたくなってしまうのが怖かった。
「支倉、紅瀬」
 そのまま孝平がどうすべきか迷っていると、かけられた声は背後から。
「東儀先輩……」
「瑛里華と伊織は洋館に居る。来てくれるな?」
「え、ええ。けど」
「既に手配はしてある。いたずらに手を出すことは、何より伽耶様自身が望むまい」
 征一郎はそう言って、二人の返事を待つ間もなく踵を返す。その口調はいつもと変わらないながら、しかし秘められた意志は決して異論を許さない者のそれだった。その僅かな違いが分からないほど、孝平も桐葉も征一郎との付き合いが浅いわけではない。
「じゃあ、紅瀬さん」
「ええ。行きましょう。貴方は千堂さんにかけてあげる言葉を考えておくことね」
「紅瀬さんにも何か言えれば良かったんだけどな」
 孝平のそんな言葉に対し桐葉は普段通りふっと笑――うことはできずに、少しだけ頬を揺らせただけだった。そのまま視線を切って、征一郎の後を追う。
「……」
 そうして孝平は桐葉を先に行かせ、最後にもう一度地獄の中の少女に目をやった後、ゆっくりと襖を閉じたのだった。



「――なんだっていうんだ、一体、こんな」
 洋館、離れの屋敷へと続く渡り廊下から一番近い部屋。ひとまずはそこに集まった面々も、しかし、伊織のそんな呟きに応えられはしなかった。
 中央の四人掛けのテーブルでは伊織が頭を抱えており、対面には静かに目を閉じた征一郎が座っている。桐葉も椅子を一つ使っており、孝平は先ほどまでさめざめと涙を流していた瑛里華を抱きかかえる形で簡易ベッドに腰掛けている。当然、その誰もが沈んだ心持ちを隠しきれないでいた。そう、伊織でさえも。
「何がどうしたらこうなるんだ。結局あの人はいつだって分かってなくて、だからあんな馬鹿なことを……」
「……伊織」
「だってそうだろう? それともなんだ、征なら答えられるのか? どうしてあの人が死ななきゃならなかったのかってことを!」
 だん、と伊織がやおら椅子から立ち上がり、征一郎へと鋭い視線を向ける。その仕草に桐葉、孝平、瑛里華が一斉に目をやった。受けた征一郎のみが、冷静な面持ちを崩さない。そしてまたそれが癪に障ったか、伊織は自分の椅子を蹴り飛ばした。
 もう、止まらない。伊織の表情から冷静さが一気に消え失せる。
「どうしてだよ! 誰が望んだ、こんな結末! 誰があの人に死んで欲しいと、死んで償って欲しいと、そんなことを願っていたっていうんだ!」
「会長……」
「それとも俺か? 俺が、あの人を憎んでいた俺が、あの人が死ぬことを望んでいたっていうのか? そう見えたか? ああ、確かに殺したいほど憎かったさ。何度殺してやろうかと思ったことか。瑛里華と和解した後だって、あの人が安穏と暮らしていることには反吐が出た。自らの罪を自覚しろって幾度となく思ったよ。――けど、違うだろう? 何のために俺はあの人を憎んでいた? どうして血を吸うことを瑛里華ほどは厭わない俺が、輸血用血液という繋がりを持っていた? そもそも言ったろう、憎しみの感情は何の裏返しだった? どうして俺は、百年間もあの人との関係を完全に断ちきれなかったと思っているんだ? あの人を殺す気なら、志津子ちゃんの親のときだって、俺自身の親のときだって、いくらだって機会はあったはずだろう!」
 そうして再び、伊織は拳をテーブルに叩き付けた。なお表情を崩さないのは征一郎のみ。瑛里華と孝平、そして桐葉はそっとその視線を落とす。
「それとも征、お前か? 支倉君も瑛里華も、そして紅瀬ちゃんだってあの人に死んで欲しいと願う理由がない。とすれば後は征――いや、東儀家がそう思っていたんじゃないのか?」
「……どうしてそう思う?」
「だってそうだろう。代々の先祖は殺され、資産も奪われ続け、千堂家は東儀家の暗部として存在し続け、征本人は父母を廃人にされている。恨む理由は、それこそ俺より多いくらいじゃないか」
「父と話したお前が、それが理由になると思っているとは思えないがな」
 征一郎が落ち着き払ってそう言うと、伊織は不機嫌そうに鼻を鳴らして倒れた椅子を持ち上げ、再び座り直した。その様子を見て、征一郎は一つ大きく息を吐く。
「……まあ、いいだろう。俺たち――東儀家は、確かに外から見れば不幸と思われるのも、分からなくはない。しかし俺たちは、しきたり、つまりは自律に従って行動している。これを規律と捉えるから、おかしいんだ。違う。しきたりは生き方だ。規律のみならず、それを判断する価値基準までもがそのしきたりに含まれる。だからこその自律。ただ現代、今という時代のイデオロギーによってのみそれを判断することは、東儀家に対する侮蔑とすら言える」
「……それで?」
「そしてしきたりの生き方からすれば、そこに含まれる規律は規範となり、それに従うことは自由意志による決定と等価になる。俺たちは渋々でも、義務感に駆られてでも、ましてや強制されて眷属になったり千堂家に仕えたりしているわけではない。国のために死ぬことが否とされたのは今から何年前のことだ? 東儀家はその何百年前から続いていると思っている? だから俺たちが、伽耶様を憎むことなど有り得ない。伊織、お前も知っているだろう、俺の父がどういう考えを持っていたのかを。廃人となることが予期できないほど、父も母も間抜けな人間では断じてない。それが、東儀家が伽耶様を殺すほど恨んでいるだと? ――馬鹿な。そんなもの、己の価値が普遍だと信じている者の愚かな推測でしかない」
 一気に言い切って、征一郎は前のめりだった身体を再び背もたれに沈め直した。腕を組んで表情はやはりいつものそれを崩さない。それでも態度に、どこか不機嫌さが見えていた。
 伊織は征一郎がだいたいどんなことを言うのか分かっていたのだろう、こちらは少しばかり落ち着いた態度を取り戻していて、きつい目つきだった先ほどとは一転、その視線を虚空へと投げている。一気に反転した場の空気。言葉を挟んだのは、黙ってやりとりを聞いていた孝平だった。
「会長も東儀先輩もやめてください。誰かに責任を押しつけられるものではないでしょう、これは」
「それは違うよ支倉君。あの人は罪の意識に苛まれて、償うために死んだんだ。だったら償いを求めた誰かがいなければ順序がおかしい。たとえ形式上であってもだ」
「でも、そんな人は居ないんでしょう?」
「ああ。俺も、征も、紅瀬ちゃんも支倉君も瑛里華もそんなことを思っちゃいないわけだからね」
 そうして伊織は、その長い足をテーブルへと投げ出した。腕を頭の後方で組み、どこか呆けたように言葉を紡いでいく。
「あとはここに居ない、死んだ誰かの恨みかい? あの人の自己防衛のために殺された誰かと、東儀家の誰か。それ以外にあの人は誰を殺したんだ? その純然たる被害者を出さないための東儀家だろう? よしんば居たにしたって、死者の恨みはただそれに関係する人物だけが受け継げるものだろう。そんな奴がどこかに居たか? そしてそこにすら誤解が交じるというのに、よもやただの他人が引き受けるわけ――――っ!」
「……会長?」
 伊織の言葉が唐突に止まる。不審に思い孝平は伊織に呼びかけるも、その声は伊織の耳には届かなかった。呆けた表情が一転、足を戻しつつその顔が硬く強ばっていく。
「そうか、つまり」
 そして同時、征一郎と桐葉は、伊織と同様のことに気付いたのだろう、沈んでいた顔をはっと跳ね上げた。わなわなとその身体を震わせ始めた伊織。しかし孝平は気付かず、瑛里華もどういう意味かと孝平に身体を預けながら視線を送るばかり。
「……でも、それだとどちらが正しいのかは分からないのではないかしら?」
「紅瀬、俺たちは普遍さを考慮する必要はない。俺たちの問題が俺たちだけで解決されるべき問題であることを示せれば、それでいい」
「そう。まあ、それが伽耶のためになるのであれば、構わないけれど」
 中核を欠いた言葉のやりとり。雲を掴むような内容に、孝平はたまらず質問する。
「どうかしたんですか? 東儀先輩にしろ、紅瀬さんにしろ……」
「居たんだよ、支倉君。あの人が死んで欲しいと望んでいた連中がさ」
「連中……?」
 ああ、と頷いて伊織は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。態度は記憶喪失を肯定した孝平に対したときのようなもので、孕む感情はある種攻撃的なそれ。
「ま、誰のこととは言わないけどさ」
 そうしてこっちを向いたまま、伊織は吐き捨てるように言ったのだった。

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