Bloody Promise
[Fortune Arterial short story]
ジリ貧、という言葉がある。
何かにつけて決断を避け、近視眼的な安全策を打ち続けるともれなく陥るその状態。もっと早いうちならばいくらでも策はあったのに、いつの間にか残っているのは袋小路への一本道になっていた。そんなことがしばしばある。
それは例えば、夏休みの宿題をサボリ続けた子供のような心境だ。
未来というのは分からない。ゆえに袋小路に続く一本道も、もしかしたらどこかでとんでもない裏道があるかもしれないと思う。あるいは終末を迎えるまでに、もしかしたら機械仕掛けの神が僕らを助けてくれるかもしれないと思う。はたまた締切りまでの間に大地震が起こって、宿題がチャラになるかもしれないと思う。
予想。希望。推測。期待。どの言葉で偽ってみても、しかしそこにあるのは決断を、実行を避け続けてきた己の弱さだけだ。解毒の注射の痛みが嫌だからと、じわじわと広がる毒を放置する。残されるのはあまりに大きなツケ。遅れれば遅れるほどにその代償は大きくなっていき、だから遅れれば遅れるほどそれを払おうとしなくなる悪循環。それのなんと愚かなことか。
愚か、あまりに愚かなり。
――――決断を迫られていた。
流れに任せ、失敗するというのはある意味では最高の結末だ。
だって、そこに決断はない。ゆえに責任もない。なぜなら、何かの流れで大きな代償を支払わなくちゃならなくなったとしても、その引き金を引いたのは決して自分自身でありはしないのだから。
ましてやそれが、解決不能な二律背反の問題であればなおさら良い。決断する主体の居ないその結果を、誰もが納得し誰もが納得しようとするから。圧倒的な現実に、過去に「起こってしまったこと」に、誰もが膝付き誰もが屈服するから。決して戻らない時間軸、その果てにある選択肢はあまりに酸っぱすぎて、だから届かなくて良いのだと誰もがその選択を追認するから。
後悔が虚しいものであることは事実だろう。確定した事項に異を唱えたとて、神がそれを聞き届けるわけでもない。だから防衛機制はたぶん仕方ないことだと思う。取り戻せない過去を嘆き続けたところで、得るものなんて何もない。
けど、始めからそれありき、というのはどうなのか。後悔しないよう袋小路へと進んでいって、責任逃れをし続けた挙句、結局うまくはいかなかった。その事実に対し、「仕方がなかった」と合理化することが、どうして愚かでないと言えるようか。自らは「最も良い解決方法を探し続けた」と胸を張り、決断から逃げ続けたことを隠し、外的要因によって失敗したと嘯く。それは卑怯と呼ばれるべき手段に相違ないはずだ。
――――ゆえに、決断を迫られていた。
押さえつけられた手首が痛い。叩き付けられた頭は未だ持ち上げることかなわずに、後頭部ではフローリングの堅い冷たさを今もなお味わっている。足を上げようにも手首同様上手く押さえつけられていて、無理をしようものならその力で俺の膝が悲鳴をあげてくる始末。仰向けから身体を回すことすらできず、俺はただ目を見開き、口を閉じ続けていることしかできなかった。
ぽたり、ぽたりと、滴り落ちてくるのは赤い約束への誘い。その根元、幾度か重ねた唇は今は見るも無惨に朱に染まり、犬歯を出して開く三日月型のそれはまるで笑っているかのよう。なおも歯の力を弱めるつもりはないのか、ぽたぽたと落ちてくる血液は減るどころかむしろその量を増してきていた。
「……、……っ!」
薄く開いた紅の唇から空気が漏れ出る音だけが、俺の耳へと入ってくる。興奮しているのか、切羽詰まっているのか。眼前の頬は紅潮、瞳も透き通るような蒼から吸血鬼の色へと染まり果て、その焦点の結び方はもはや狂人のそれと何ら違う所はない。俺が血を飲み込まないことが癪なのか、眉はなお一層つり上がり、ギチギチと手首を締め付ける力は骨が砕かれかねないほどの圧迫へ。
「――っ」
指先の感覚が麻痺していく。圧倒的な力の差。それが吸血鬼とはいえ、あの「副会長」がそれだけのことを俺に対してしているという現実に、俺はいてもたってもいられなくなる。
狂った瞳。蛍光灯を背に俺を見下ろすその姿は、獲物を捕えた狼のよう。俺の前では気丈に笑い続けていた明るさは、とうの昔に消え去っていた。剥き出しの欲望は組み伏せられた俺という獲物にそのまま叩き付けられ、愚かな選択を恫喝するようにその本能が牙を剥く。
――――もはや、決断せずにはいられなかった。
不可逆なものなんて、そこら中に転がっている。
俺が眷属になることだけじゃない。例えば、俺が伽耶さんに殺されること、副会長が屋敷に戻ってしまうこと、伽耶さんが副会長に痺れを切らしてしまうこと、白ちゃんが眷属になってしまうこと、血への飢餓感から副会長が狂ってしまうこと……どれも一度起こってしまえば、二度と取り返しがつかないものばかりだ。
確かに俺たちは、事態を解決するために――いや、解決方法を見つけるために頑張っていこうと決めた。しかしそれでどうなる? ありもしない解決策を求め続けて、時間切れになるのを待つのか? 俺が決断したわけじゃないという、ちっぽけな責任逃れの言葉を得るために?
……馬鹿が。現状を把握しろ。俺たちは最も不利な場所にいることくらい、理解できずにどうするのか。
俺たちの現状は、絶望的なんかじゃない。”的”なんていらない。絶望なんだ、結局は。望みが絶たれる、すなわち小数点の後にいくら0を重ねたところで1すら出てくることのない確率だ。
考えれば分かるだろう。もし白ちゃんが独断で、副会長の血を飲んでしまったら? それで副会長が屋敷の外で生きることを許されたからとて、俺たちが今まで通り付き合っていけるはずがない。
あるいは、伽耶さんが俺を殺しにかかってきたら? そうなれば俺は死ぬか、最悪眷属になって命を優先するしかない。そのどちらにせよ、副会長がそれにどれだけ心を痛めるかは想像するだに余りある。
はたまた、副会長がこのまま狂い果ててしまったら? 助けられる道がありながら、副会長をそうさせてしまったことに対して、俺が耐えられるわけがない。
どれも起こりうる可能性だ。少なくとも、「万事上手く収まる決定的な解決法」が忽然と現れる確率とは比較にならないくらい高い可能性と言っていい。それも、時間を経れば経るほどに高まっていく可能性だ。明日にでも、なんて生温いことは言っていられない。今日の夜にも白ちゃんは眷属になってしまうかもしれないし、次の瞬間には俺は伽耶さんに腹を貫かれているかもしれないし、いまこの瞬間副会長は回復不能な狂人と化してしまうかもしれないのだ。
そうなってしまった後で「俺たちが付き合い続けるには、結局これしかなかったんじゃないか」なんて思うことが、「俺は後悔していない」などと言うことが、本当に進むべき道であるだなんて、そんなことがあるはずがない。
――――だから、決断した。
だって、あるべきだろう? 俺が、他ならぬ俺自身が、自らの考えと決断によって、副会長の眷属となり事態を終結させる選択肢の一つくらいは。
「副会長」
口を開き、声をかける。たったそれだけのことで赤い液体は俺の口内へと侵入してきて、粘りけのあるそれが舌や歯を撫でていく感触に身震いした。広がる鉄の味。唾液と混ざったそれが喉の奥へと垂れていく。
「……あは」
そこまでして、苦しげだった副会長の表情がようやくふっと和らいだ。浮かべられたのは極上の、落ち着いているときの副会長のそれとは対極にある、まるで相手を屈服させたときの子供のように無邪気で凄惨な笑み。唇を噛むことを止めても、ぽたぽたと垂れる滴はなお俺の口を狙って落とされている。だがそこに切羽詰まった感はなく、あるのは情事の後の余韻を楽しむかのような余裕。同時、俺を拘束していた圧倒的な力もついに外されて。
自由になった腕。俺はぐっと持ち上げて、俺を覆うように垂れている長い髪、それを遡り白い首筋へその手をすっと差し入れた。それとともに押さえつけられていた上体を少しだけ持ち上げると、意図することが分かったのだろう、副会長はらしくない媚びた笑みを俺に向けてくる。
膝を曲げ、俺はなお首を伸ばしつつ、副会長の頭をぐっと引き寄せて。
……きっと彼女は嘆くだろう。怒るだろう。そして、泣くだろう。
でも、それを俺は承知の上で。全てを勘案した上で。これから未来永劫続く人生、無茶をしたというバカさ加減に全てを帰結することなく、その決断を背負った上で。
「……」
自然と繋がるもう一方の手、副会長が指先を重ねてくる。
ぬくもりが熱を帯びていき。艶かしい紅に染まった、戸惑うクチビルが触れて、
「……瑛里華」
「ん……」
赤い約束を、くちづけた――。
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