伽耶とキャベツと雪

[Fortune Arterial short story]
 夏になった。
 誰もが待ち望んでいた冷房の使用もついに解禁され、ここ監督生室での作業もずいぶんと快適になったことこの上ない。
 窓を開けて風鈴を鳴らすのもいいが、やはりクーラーの威力には敵うべくもなく、今はカーテンまで閉めて文明の利器の恩恵を最大限に甘受していた。

 そんな夏真っ盛り。学院では夏休みが始まっていて、帰省する生徒も多い中、しかしこの監督生室ではなお普段と変わらぬ日常が展開されている。
 なぜなら、例えば一学期の各部活の総括、備品の整備、そしてなにより文化祭の準備。授業期間中のように突発的な事案はなくとも、むしろこの長期休暇用に設定されている仕事というのは数多く、それをこなさなければならないためである。
 流石に丸一日根を詰めているわけでもないが、楽な仕事とは言えなかった。それでもそれをやっているのは、まあ、どこかで満足しているんだろうなとは思う。心地良い充足感と言えた。

 ちなみに俺と同じ気持ちであろう瑛里華も仕事には従事しているものの、今は教室棟の備品点検に出払っている。白ちゃんはローレル・リングの活動があって、会長は……まあ、居ない。理由は「会長だから」でこと足りるだろう。
 そんなわけで現在監督生室で書類と格闘しているのは俺と、東儀先輩と、そしてようやくパソコン操作に慣れてくれた紅瀬さんなのだが、それに加えてもう一人――

「……ふう」

 中央のテーブルに座る俺の対面。手持ち無沙汰なのか手をぐてっとテーブルに投げ出し、足をぶらぶらさせて全身で退屈感を露わにしているのは、ここ最近顔を出すようになった伽耶さんだ。
 本人は決して言わないが、きっと自宅に居ても寂しいのだろう。ちょこちょことこの監督生室に来る伽耶さん、仕事を邪魔しちゃいけないという気持ちはあるようで、流石に口を出したりはしないのだが、であるがゆえになおのこと暇そうに見えてしまう。

 そして普段であれば手の空いた誰かが休憩がてら話をしたり、あるいは会長と喧嘩したりしているのだが、あいにく今は会長・瑛里華双方ともに留守にしている。それでもまさか「お茶を汲んできてください」とも言えず(そもそもできるのかどうかも謎)、ちらちらと送られてくる意味ありげな視線に困り切っている現在である。
 構って欲しいのは分かるのだが、俺にも一応割り当てられた仕事があるのだ。そうそうサボってもいられない。

 そんなこんな、なんとなく肩をすぼめて作業を続けていると、カタン、とキーボードが一際高鳴った。
 視界の端、ぴくっと伽耶さんが反応する。

「よし、できたわ」
「き、桐葉! どうした、仕事が一区切りついたか? たまには一息ついてはどうだ?」

 ちなみに紅瀬さんが休憩を取ったのは、ほんの二十分前である。

「そうね……」

 視線を送ると、紅瀬さんはわざと考え込むような仕草をして間を取ってから、

「休憩、してほしいかしら? 伽耶」
「へ? な、なにを馬鹿なことを。お前の働きもまた瑛里華の助けとなるのだから、遊んでもらっては困るぞ。
 しかし、まあ、休みたいというのなら相手をしてやらんでも――」
「そう。じゃあ、続けるわ」

 そう言って話をあっさり切り上げ、再びパソコンへと向き直る。
 対して伽耶さん、なんとも言える表情でなんとも言えないうめき声をむごむごと呟いてから、むすっと目を閉じ押し黙ってしまった。そしてそうなってから――つまりは伽耶さんが視線を外してから――紅瀬さんは再び伽耶さんに目を戻して、その何とも言えぬ態度を楽しんでいる。……ちょっと伽耶さんに同情せざるを得ない。
 位置的に全て見えるのだろう、かすかに東儀先輩の溜息も聞こえた。

 だからまあ、結局は。

「あの、伽耶さん」

 これだから瑛里華に「お人好し」とか言われるんだろうなあ、とか思いつつ、いたたまれなくなり伽耶さんに声を掛ける。
 それに対し、はっと目を見開く伽耶さん。それでも一瞬にしてその表情は引っ込んで、興味がないように目を逸らし、ふてくされたような態度を見せてくる。紅瀬さんの穏やかな笑みが見えた気がした。

「そのですね、大変申し訳ないんですが、1階の倉庫から書類を取ってきてくれませんか」
「ほう。お前、それはあたしに雑用を命じていると、そういうことか?」
「すみません。でも、これが終わらないと瑛里華に迷惑がかかってしまうので」
「ぬ……むう……ま、まあ、瑛里華の為なら仕方あるまい。瑛里華とて仕事中なのだ。それがたとえお前に言われたものであろうと、瑛里華の為であるならばこなしてやるのも吝かではない」

 言って、言葉とは裏腹に俊敏な動作でぴょこんと椅子から飛び降り、からからと下駄を鳴らしてさっさと扉へと向かう伽耶さん。もう、待ちに待った時がついに来た! という感じだ。……今度からはもっと早く声をかけてあげようと、心に誓う。
 そしてまあ、それはそれとして。

「あの、伽耶さん。まだ何を取ってきて欲しいか言ってないんですが……」

 ドアノブに手をかけた伽耶さんがぴたっと固まり。
 今度こそ、紅瀬さんの吹き出す声が聞こえたのだった。



       ○  ○  ○



 幾度目か分からない、どんがらがっしゃん、としか形容できない音が聞こえてきて、2階の監督生室では今度こそ溜息が三つ重なった。

 俺だって最大限配慮はしたのだ。
 あの魔界のような倉庫の奥まで行かないように、書類の位置は入り口のすぐ近くで。
 あの子どものような身長の伽耶さんでも届くように、書類は低い棚に入っていて。
 それでも伽耶さんが満足できるように、やや分厚めの出納帳を持ってきてくれと、そう頼んだ。

 だのに。
 どうしてこんな、どったんばったんと、まるで鬼ごっこでもしているような音が下から響いてくるというのか。

「……支倉」
「え、やっぱり俺ですか?」
「まあ、頼んだのは支倉君だもの」

 何気にこういうときは連係プレイの東儀先輩と紅瀬さん。東儀先輩は呆れ半分申し訳なさ半分、紅瀬さんは面白さ全部といった感じの表情で、俺に責任を押しつけてくる。
 そして、行って見てこいとも言っているのだ。伽耶さんが何をしでかしているのか、ということを。

「支倉とて、1階の惨状を――いや、実際は何も起きていないかもしれないが、どうにかなってしまっているとしたら、それを見た伊織がいつものように伽耶様をからかって喧嘩になること、本意ではあるまい?」
「いやまあそうですけどね……」

 なんとなく釈然としないものを感じつつも、仕方なくペンを止める。
 どうしていらない書類をわざわざ取りに行かなくちゃならないのかとか、っていうか仕事確実に増えたよなとか、そんなことを思いながら立ち上がろうとしたところで。

「まったく……難儀させおって」

 きい、と扉が開いて、伽耶さんが戻ってきた。

「おかえり、伽耶。ずいぶんと――あら?」

 早速伽耶さんをいぢろうとしか紅瀬さんの言葉が、入ってきた伽耶さんの手元にあるものを見て止まる。
 そこにあったのは、俺が頼んだ分厚いファイルなどではなく。

「ん? ああ、こいつな。動物であるのは分かったのだが、存外すばしっこくて苦労したわ」
「えと……倉庫に居たんですか?」
「ああそうだ。こういうのはさっさと取らないと壁に穴を開けたりするからな。まあこの大きさなら……ふむ、五〜六人分はまかなえよう」

 その動物の首根っこを掴み上げ、だらーんと目の前にかざして何やら人数の勘定をする伽耶さん。
 言われた言葉の意味が分かったのか、びくっと可哀想になるくらい縮み上がったその小動物とは、まあつまり、

「伽耶様。……それは雪丸です。礼拝堂で白が飼っているものです」
「む? そういえばウサギを飼っておるとかおらんとか言っておったが……」
「それがこの雪丸ですよ。ってかまた逃げだしたのか、雪丸」
「むう。……ぬっ」

 手を差し伸べてやると、雪丸はするするっと伽耶さんの腕から逃れ、俺の懐に飛び込んできた。なかなか間抜けな顔をした奴だが、その一瞬の動きは野生がごとき俊敏さ。よっぽど怖かったに違いない。なんとなく、以前紅瀬さんが冗談を言ったときのことも思い出す。
 雪丸を受け取った形になった俺は、小動物特有のその温かさと柔らかさを楽しみつつ、自分の席に座りなおる。対して、なんとなく伽耶さんは不満げだ。

「食うこと叶わんというのもそうだが、今の態度も釈然とせんな。あたしよりお前を選ぶとは、そのウサギ、人を見る目がよほどないと見える」

 そうして伽耶さんの瞳がすっと細まる。対象である雪丸は一層俺から離れようとせず、その態度になお伽耶さんが腹を立てるという悪循環。
 同じ赤い瞳同士仲良く……とか言ったら、あの鋭い視線、こっちに向くんだろうなあ。

「伽耶様。ウサギは臆病な生き物です。優しくお扱いにならないと」
「そうそう。貴女みたいに寂しがりやなのよ」
「……」

 いつの間にやら給湯室に入っていた紅瀬さん。そこから出てきざまのそんな言葉に、東儀先輩は呆れたように溜息。
 伽耶さんは何か言おうと口を開きかけたが、しかし、紅瀬さんがそれを遮るように伽耶さんの目の前に「それ」を差し出す。

「うん? なんだこれは」
「何って、人参だけど」
「そうではなくて――」
「レタスもあるわ」
「だー! そんなことを聞いておるのではない!」
「あ、そうね、ごめんなさい。レタスではなくてキャベツだったわ」
「…………」

 伽耶さん沈黙。

 しかしなんで人参やらキャベツやらが、まるで用意されたかのようにこの監督生室にあるというのか。紅瀬さんに尋ねようとして、でもやっぱりやめて、東儀先輩に眼で問いかける。紅瀬さんと伽耶さんのやりとりに対してだろう、疲れた顔がそこにあった。

「礼拝堂の冷蔵庫はあくまでシスターのものだからな。彼女が居なければ開閉できない。
 そのために、白が自由に使える場所に多少の餌は用意してあるということだ」
「なるほど」

 確かに、ここの給湯室にある冷蔵庫であれば、白ちゃんでも自由に使うことが出来る。時折給湯室から雪丸のお世話セットを持って出てくる白ちゃんを見かけたが、冷蔵庫も使っていたらしい。野菜など気にもかけないから気付かなかった。

 そんなことを考えていると、ようやく伽耶さんが再起動。紅瀬さんから渡された野菜のうち、人参を手に取りじっと見つめた。赤い瞳でそれを注視している姿は、なんとなくウサギのようであるとも思える。あとちっちゃいとことか。言わないけど。

「食べさせてあげたらどうですか?」
「へ? あ、あたしがか?」
「ええ、まあ。雪丸と仲良くなりたいでしょう?」
「別にそうは思わんが……」

 しかし興味はあるのか、じっと視線を送る伽耶さん。送られた当の雪丸は、先ほどの「五〜六人前」発言はすっかり忘れているのか、俺の腕の中でさっぱり何も考えていない風にひくひくと鼻を上下させている。

「しっかし、見れば見るほど間抜けな顔をしとるのう。飲んで食って寝て、畜生のくせに良い身分ではないか?」
「そうね。飲んで食って寝て、たまに監督生室に遊びに来て。身体は小さく動きは俊敏、瞳は赤くて――」
「おい、桐葉。どことなく悪意が感じられるが」
「さあ? 気のせいよ」
「……ふん。まあ、獲物ではなく愛玩動物として考えれば、少なくともうちの眷属よりは可愛げがあろうよ」

 皮肉を返して、伽耶さんは雪丸にそっと手を伸ばす。そのまま指で軽く頭を撫で付けると、雪丸は気持ちよさそうに眼を細めた。そうして背中まで撫でていくと、雪丸同様、伽耶さんの表情までもがなんとなく穏やかなそれになっていく。

「そろそろ食わせてみるか」
「人参は切ってないみたいなので、キャベツにした方がいいですよ」
「ふむ」

 いつもであれば文句の一つも出てくるはずの提言も、視線を雪丸に向けたままの伽耶さんは素直に頷き俺の言葉に従った。人参をテーブルに置いて、かわりにキャベツの葉を一枚、手にする。
 そしてまた、これには雪丸が即座に反応した。俺の腕から首を伸ばして、ひくひくと匂いの方向を探し当てる。目当てのものが伽耶さんの手にあると見るや、ぐぐぐとその頭を伽耶さんの方へと向けた。なんと現金な。

「ほれ。仕方ない、特別に食うことを許してやる」

 手頃な大きさにちぎり、伽耶さんがすすっとキャベツの端を雪丸の鼻先へと持って行く。雪丸は匂いを確かめることすらそこそこに、すぐさまかじかじとそのキャベツを口の中へ。

 そしてその間、雪丸を抱えて伽耶さんとは対面する形の俺からは、キャベツをあげている伽耶さんの表情がはっきりと見えた。雪丸を見つめるその態度。それは確かに、当人たちには少し失礼かもしれないが、瑛里華を見つめているときの顔にとてもよく似ていると、俺は思った。
 大げさに表現すれば、慈しみとでも言えるようなその感情。人を人とも思っていなかった伽耶さんが、人どころか雪丸相手ですらそういう態度を取れるようになったこと、それはこれ以上なく喜ばしいことだと言えるのではないだろうか。

 伽耶さんの頭越しにその向こうを見れば、そっちはそっちで、同じように穏やかな表情が伽耶さんを見つめていた。また、おそらくはきっと俺も同じような顔をしているに違いない。

「ほう。そうかそうか、そんなに美味いか。……って、おい、そんな急がずともまだあるというに」

 垣間見せる笑顔は、決して俺や紅瀬さんには見せようとしない無防備さ。
 俺はそれを見なかったことに――いや、正確に言えば気付かなかったことにして、伽耶さんが満足するまで、その腕に雪丸を抱え続けていたのだった。



       ○  ○  ○



「あ、居た居た。おーい、白ちゃん!」

 かくして時は夕暮れ、監督生棟からの帰り道。
 絵の具を流したが如き橙に染まった舗装路をゆっくり歩いていくと、白ちゃんが礼拝堂の庭先で掃き掃除をしているのが目に入った。少しばかりの逆光で、全体的に薄い色のローレル・リングの制服も、なんとなく赤みがかっているようにも見える。

「支倉先輩! それに伽耶様に……あ、ゆきまるです!」

 とてとてと走ってくる白ちゃん。
 ちなみに雪丸が監督生室に居たことは、とうに(東儀先輩が)メールで伝達済みだ。そうでなければ、白ちゃんがこうものんびりとしてはおるまい。本当に白ちゃんのこととなると、東儀先輩の動きは素早いというか。

「もう何回目かになるらしいではないか。まったく、そうそう逃げられてばかりではいかんぞ?」
「は、はい、すみません、伽耶様。雪丸がご迷惑をおかけしました」
「なに、気にするな。こやつはなかなか賢い。最終的にはそいつではなく、あたしを選んだのだからな」
「……?」

 何のことでしょう、と白ちゃんが小首を傾げ、手ぶらの俺に問いかけてくる。

 そう。何のことはない、いま雪丸を抱えているのは伽耶さんだということだ。
 あれからエサをやっているうち、雪丸はどんどんと伽耶さんの方へと首を伸ばしていって、やがてはその上半身を全て俺の腕から出しているほどになった。伽耶さんもまんざらでもなさそうだったので、「抱いてみたらどうですか」と尋ねてみれば、口では渋々言いながらも結局は伽耶さんも承諾。そこからは伽耶さんが雪丸を抱え込んでエサをやっていて、雪丸は満腹になった後も伽耶さんの膝の上に居座り続けた。そうして伽耶さんは白ちゃん直伝のウサギ知識を俺から聞きながら、夕暮れまで監督生室で過ごしていたというわけである。

「まあ、雪丸も伽耶さんが気に入ったみたいだってことだよ。伽耶さんの方は……まあまあ、かな?」
「む? そ、そうだぞ。うむ、この賢いウサギだからこそ、あたしに触れることを許しているわけであってだな」

 素手で首根っこ掴んできたのは誰でしたっけ、なんてツッコミを入れるまでもなく、これには白ちゃんも苦笑い。それでもやっぱり嬉しそうで、きっとどんな感じなのかというのは雪丸の態度からも分かるのだろう。雪丸がびくびくしているかリラックスしているか、そのくらいの違いが分からない白ちゃんではない。

「ではこやつはお前に返すぞ。しっかりと錠をしておけ?」
「はい。重ね重ね、ありがとうございました、伽耶様」
「よいよい。それと――」

 白ちゃんに雪丸を受け渡しつつ、伽耶さんは努めて何でもないことのように言った。

「これからは時折、そやつの様子を見に来て構わんか?」

 一瞬、ぽかんとした表情を見せた白ちゃん。しかしみるみると理解の色が差していき、伽耶さんが必死に冷静な顔を取り繕った努力を水泡に帰すかのように満面の笑みを浮かべて、

「――はいっ! 是非どうぞ、伽耶様」

 伽耶さんの頬が赤くなったことにも気付かずに、元気いっぱいに白ちゃんはそう言ったのだった。





       ○  ○  ○





「ただいま」
「あ、おかえり支倉君。雪丸はちゃんと渡してきた?」
「ああ。丁度白ちゃんが礼拝堂で掃除してたよ」
「そう。良かったわ」

 紅瀬さんも東儀先輩も帰った後の、監督生室。
 既に外が暗いというのに、俺はそこに戻ってきて。待っていた瑛里華は、俺の顔を見てまじまじと溜息。

「――やっぱりお人好しよねえ」
「それ、褒めてる?」
「半分褒めてるけど、もう半分はどうかしらね。事情が事情だしちょっとは手伝うけど、ちゃんと頑張ってよね?」
「……はい」

 瑛里華がもう一度溜息を吐きつつ、送った視線の先。

 今日中に終わらせるはずだった書類の山が、昼間の俺のサボりを糾弾するかのようにうずたかく積まれていたのだった――。

「あ、それと1階の掃除と整理もね」
「……」

 ……そっちもか。

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Short Story -Fortune Arterial
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