ごじつだん。
[Fortune Arterial short story]
夏休み。
言うまでもなく夏の休みであり、疲れ果てた身体を休めるべき日程であり、田舎に帰って久しぶりに親に会う予定の入る時期であり、英語で言えばサマーバケーションであり、学生は学生らしくその無駄に長い休みを遊びと言う名の青春で謳歌すべき時間であり、
「支倉、サッカー部が出展内容を変更するらしい。必要書類の点検を頼む」
「なあ瑛里華、そろそろお昼にしたいんだけど……」
「それが終わるまでダメよ。
っていうか、だいたい兄さんは別に食べなくたっていいんだから! ”キリキリ”働く!」
「呼んだかしら?」
「あーもうっ! 呼んでないわよ!」
その学生たちを支える俺たち生徒会にとっては、そのことごとくを返上して文化祭の準備にあてなければならない期間なのである。
次から次へと舞い込んでくる仕事は有形無形問わずこの監督生室に山積していっており、俺の役割分でもある書類整理の分野においては、文字通り高層ビルのような書類の山がずでんと机の上を陣取っていた。
それに加えて無形の仕事、つまりクラス間のごたごたやパンフレットに載せる広告の催促などの交渉ごとも目に見えない形で積もっていっており、東儀先輩はさっきっから監督生室直通の電話から一歩も離れることができていない。俺と会長は問題処理のためにしばしば本敷地の方へと赴いたりもしているが、その合間にもこうして書類整理をやらされている始末。白ちゃんはお茶汲みに東儀先輩の補佐にとてんてこ舞いで、俺と同じ机についている紅瀬さんもいつも通りの凜とした姿勢ながらどことなく疲れが見えた。
要するに、どの仕事も人手が足りていないのだ。
「支倉先輩。これもお願いします。三時までだそうですので」
「え、三時って……」
「なあ征、食堂に行ける口実を作れるような案件、なんかないかい?
今なら鉄人の料理も全部完食できる気がするんだが」
「『口実』とか人の目の前で言うな!
紅瀬さん、それ終わったら消防に提出する書類もお願いね」
「白、広告案件の提出日をまとめておいてくれ。
それと支倉、追加だ。柔道部も変更がある。野球部は場所を屋外に変更したいらしい」
伝言と書類が飛び交う様は、まさに銃弾飛び交う戦場が如く。圧倒的な物量に対する絶望感や、一瞬の気の緩みが致命傷となりかねない状況は死地と呼ぶにふさわしい。とすれば仕事を持ってくる生徒たちはさながら敵の増援か。追い返すわけにもいかないが。
そして、その地獄のような戦場で、カチカチと鳴り響くクリック音はこの上ない不協和音で。
「ねえ」
「なあに、紅瀬さん?」
「……『アレ』はOKなの? 生徒会として」
紅瀬さんが冷ややかな瞳のまま、その細い腕を上げて指差した先。
「どうしてあたしが子どもらの仕事を手伝わねばならん、桐葉。
手を出してやりたい辛さを抑え、その試練を見守るのも母の務めというものよ」
さっきっからPCに唯一入っていたゲームをやっている伽耶さんは、悪びれもせずそう言い放った。
○ ○ ○
あれ以来、伽耶さんはこうしてしばしば監督生室に顔を見せるようになった。理由をはっきりと口にすることはないが、会長曰く「ヒマなんだろ」とのこと。始めは伽耶さんが来ると入れ替わるように部屋を出て行っていた会長も、ここ最近は一応部屋に留まってはいる。もっとも、正確を期せば「この忙しい時期に外で油を売らせるわけにはいかないわ」という副会長によって「監禁」(会長談)されているわけなのだが。
まあ、言うまでもなく寂しいのだろう。人の温かみを知った伽耶さんが、今までのように孤独に生きて行けようはずもない。過度の憎まれ口はその孤独の唯一の支えであり、その方法を失った今、伽耶さんは自らこうして外へ出るようになったということだ。そのことを副会長以上に喜んでいたのが東儀先輩と紅瀬さんだというあたり、わりと面白いことだと思う。
だから俺もそれを静かに見守っていきたいし、その結果として多少の混乱があったとしても、それは伽耶さんの寂しさの表れであって、うん、そのくらいは我慢しなくてはなるまい。
「紅瀬ちゃん。子どもはね、珍しいものを見つけると延々それで遊びたくなる生き物なんだよ。
ねえ、伽耶”ちゃん”?」
そんなことを思っていると、「多少の」で済まなそうな言葉が会長から発せられた。
……さっさと昼食を取りに行かせるべきだったかもしれない。
「……お前、あたしをバカにしてるだろう?」
「いやいや、褒めてるんだ。
さっき女子学生達からも褒められていただろう、その”可愛らしい容姿”をさ」
「なっ、見てたのかっ!?
あ、あれは教師どもの教育が……だいたい覗き見など良い趣味とは言えんぞ」
「おいおい、黒猫使ってた人がそれを言うかい。
眷属にしてしかも見張ってるなんて、どれだけ寂しがりやなんだか……あ、そうか。迷子の娘さんはお母さんがいないと不安になるのかな」
ピキ、と娘にも受け継がれていた血管音のオリジナルが鳴った。マウスから手を離し、椅子から降りて会長の方へと向き直る。
反対に俺はさっと目を逸らした。そのまま自分の担当分の書類をゆっくりと伽耶さんの方向から遠ざけ、ちょいちょいと白ちゃんを手招き。とてとてと近づいてきた白ちゃんを守るように椅子を引いて、「地震があったら机の下に」な感じの避難完了。
慣れたものだ。自分でもちと悲しい。
「桐葉」
「……ふう」
伽耶さんは強い口調でその名を口にする。呆れたように腕組みして、呼びかけに応え立ち上がった紅瀬さん。呆れたようにというか、完全に呆れてる態度だ、あれは。例えるなら駄々こねる子どもを見る母親のような。表情から苦悩がにじみ出ている。
「あ! ずるいぞ、紅瀬ちゃん使うなんて!」
「吸血鬼が眷属を使って何が悪い?
あたしを散々バカにしておいて、タダで済むとは思っていまい? なあ、伊織?」
「くっ……。
そうだ! 支倉君! ……は瑛里華の尻の下だし、弱ったな」
「ちょ、ちょっと! どさくさに紛れて何言ってるのよ!?」
真っ赤になって叫ぶ副会長も、無責任にも俺とは反対側で自分の書類を抱えて避難している。セコい。止める気はないということらしい。
俺も更に一歩、身体を引く。
「さて、どのように命令をすべきか。
お前はこの仕事をたいそう気に入っているようだから、三日三晩ここから出られぬ身体にするのも面白そうだ」
「んなっ!?
それでも人間か、この鬼! 吸血鬼! ロリ年増!」
「――殺れ、桐葉」
「あ、紅瀬ちゃん、ちょ、待っ……!」
一瞬、一撃。
机の上の書類と、長い黒髪がはためいて。
打突音が耳に入ってきたときには既に、会長の身体は窓の外へと放り出されていた。
○ ○ ○
さて、そうこうするうち、午後。
書類の整理も一区切り付き、少しばかり空気も弛緩し始めたころ。
「なあ、支倉君」
吹っ飛ばされた先から戻ってきた会長が、どことなくにやにやしながら声をかけてきた。嫌な予感しかしない。その目が副会長や伽耶さんの様子を探るように動いているとなれば尚更だ。
「そろそろ交代でお昼行ってきてもいいんじゃないかい?
そうだな、差し当たっては紅瀬ちゃんあたりからとか」
意図が見え見えです。
「あ、いま支倉君、『紅瀬ちゃんを追い出してその隙に伽耶さんにちょっかいを出すつもりなんだろう』とか思ったろう!?
僕がそんな小さな男に見えるかい?」
「小さいかどうかはともかく、そう思っていそうには見えますが」
「言うようになったね、君も」
自分の襟元を掴んで、ふうと一息吐く会長。残念ながら俺もこの生徒会に入って数ヶ月、だんだん会長の行動パターンの予測精度が上がってきているわけで。今なら「こういう生き物だと思った方が良い」という東儀先輩の言葉の重みがよく分かる。
会長は再び副会長と伽耶さんの方をちらっと見て、その後今度は紅瀬さんの方まで見て、
「実はね、さっき帰りに食堂寄ってきたんだけど」
寄ったんですか。
「ああいや、まあそれはともかくね。
インド風激辛チゲ、今日はそろそろ売り切れそうなんだよ」
会長の後方。ピクッと黒髪が揺れた。
……そういう魂胆か。
「夏限定のメニューだし、今日みたいな暑い日には丁度いい。いつもより美味しく感じられるだろうね。
そしてだからこそ売れに売れていて、ああ、今すぐ行かないとあの辛くて美味しいインド風激辛チゲが売り切れ――」
「千堂さん。仕事も一段落したから、今のうちに食堂へ行ってきていいかしら?」
「へ?」
ガタン、といきなり椅子から立ち上がった紅瀬さん。いきなりのことに声をかけられた副会長のみならず、伽耶さんや東儀先輩までもが目を丸くした。
……ああ、紅瀬さん。会長の罠にかかってしまうなんて。
「え、ええと、まあそうね、いいんじゃないかしら。
紅瀬さんが戻ってきたら私たちも交代で行くことにするわ」
「伽耶は? 一緒に行く?」
「え?
いや、あたしは後で良い。今いいところなのでな」
「そう」
すたすたと、いつも通りの冷静さに見える足取りで監督生室を出て行く紅瀬さん。ちょっとだけ歩く速度が速いように見えたのは、気のせいなのかどうなのか。人外のスピードで校内を駆け抜けないことを祈る。
隣では会長が小さくガッツポーズ。
「ちょっと兄さん? 仕事進んでるの?」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫。いま支倉君から各部活の順番を聞いてるんだ」
「そう? まあ、ちゃんとやってるのならいいけど……」
副会長の視線が落ちると同時、会長はくるっとこっちに振り向きなおって、
「さて、支倉君。ミッションだ」
「いや、今俺がやってるのって衛生関係なんですけど」
「そんなことはいいんだって。それよりもっと重要なミッションだ。
あの人の気を引いてくれ」
「伽耶さんの? 何でまた?」
首を傾げると、会長は声を潜めるようにしてぐぐっと身体を落とした。俺もつられて頭を下げる。どっからどう見てもひそひそ話。
「あの人の頭についている飾り、あるだろう?」
「ええ、綺麗ですよね。名前はよく分かりませんが」
「あれね、髪の毛に深く絡みつけてあるんだよ。
それを後ろから思いっきり引っ張ると、どうなると思う?」
「……」
どうなるも何も。
会長は心底嬉しそうにそう言っていて、つまりそういうことなのだろう。本人の手前、溜息を吐くこともできないが、これを今までずっと相手してきた東儀先輩の苦悩が垣間見える。
会長は「それじゃ、よろしく」なんて言って副会長に疑われるより先に俺の席から離れていった。何を考えてるんだ、一体。
まあ伽耶さんと話してみたくはあるし、その結果どうなっても俺の責任じゃないし、と一応自己弁護。会長の動きを注視しつつ、とりあえず今やってる書類を書き上げてから伽耶さんへ向かって声をかけた。
「伽耶さん、どうです? 面白いですか?」
「む? まあ、そうだな。
娯楽というのも進化するものだ。かつては紙と筆を手に入れるのも一苦労だったゆえ、長い物語を楽しめる者など限られていたのだが、よもやそれに音や絵もつこうとは」
「ああ……」
確かに綺麗な紙の大量生産ができるようになったのは、近代以降だと聞いたことがある。昔はコピー機なんてものはないわけだし、公文書や教科書の類ならともかく、娯楽の分野までそれが拡がることはなかったのだろう。
そう考えると、紅瀬さんが文庫を好んで読むのはその辺りにも理由があるのかもしれない。
「しかし最近は終盤で突飛な展開になるのが流行りなのか? これはこれで面白みはあるが、なんというか、慣れんな」
「いや、そういうわけでもないですけど」
「ふむ。まあ、人間の嗜好そのものはそうは変わらぬか」
何か考え込むような仕草をする伽耶さん。
そして、その背後。回り込むようにして音もないまま立ち上がったのは、
「取った!」
「――!?」
「はっはっは! くらえ、正義の――」
満面の笑みを浮かべて、両手で髪飾りの両端をがしっと掴んだ会長”と”、
「何を取ったんだ、伊織?」
「鉄つ――…………へ?」
会長の頭を大きな手でがしっと鷲づかみした東儀先輩だった。
「え、征? あれ?」
「伊織。少し話がある」
「いだだだだ! ま、待てって、征!」
「待たん」
ずりずりと監督生室の外へと引き摺られていく会長。心の中でお悔やみの言葉を申し上げておく。
「…………つくづく愚かよのう」
目を閉じ、嘆息する伽耶さん。
それでもそこに憎しみ以外の感情が籠もっているのを、きっと自覚はしていないだろう。そのことに、少しだけ優しい気分になれてしまう。自覚できないということは、自覚するまでもないということなのだから。
「災難でしたね」
「ほほう? ひとごとのように言っておる場合か?」
「え?」
にやっと笑う伽耶さん。目線が俺よりやや上なのを感じ、振り返れば。
「さ、支倉くん。ちょっと頭貸しなさい」
「え? え? え?」
「結果とはいえあの男の策略に乗るとは、いくら瑛里華の相手と言えど見逃すわけにはいくまい」
「げ」
要するに、聞こえていたらしい。随分と耳が良いことで。
……っていうか、そのくらい気付いてくださいよ、会長!
「え? ドリアを奢ってくれる? 悪いわねえ。
あ、母様の分も支倉くんが出してくれるそうよ」
「ふむ、まあそのくらいの甲斐性は見せんとな」
「え、そんなこと言ってな―――――んでもありません」
「よろしい」
溜息ついて、立ち上がる。伽耶さんはぱぱっとPCを待機モードへ。紅瀬さんよりよっぽど使い慣れてしまったようだ。
「それじゃ白、私たちもお昼行ってくるわ。征一郎さんと兄さんはすぐ帰ってくるし」
「はい、分かりました。
……あ、おかえりなさい、紅瀬先輩」
「ただいま」
紅瀬さんが戻ってきた。「みんなで立ち上がってどうかした?」とでも言いたげな表情。そういう感情が出てくるようになっただけでも進化だ、ある意味。
「ちょうど良かった。これから私たち、食堂行ってくるから」
「そう」
答えて、さっさと自分の席に着く紅瀬さん。疑問解決により会話終了、って感じ。シンプルイズベスト。フリーズドライとまでは言わないが、せいぜい摂氏5℃、湿度10%くらいか。これでも随分マシになったほうだ。
「それじゃ行きましょ、母様」
「うむ。
お前もさっさと来い。特別に同席を許そう」
「えっと、はい……」
伽耶さんは一つ頷き、副会長とともに監督生室を出て行く。
どうして奢る側が下手に出なくちゃならんのだろう、と疑問に思いつつもそれに続いて、階段を降り、監督生棟を出て。
「母様は何食べるの?
支倉くんのおごりだから、好きなものを好きなだけ食べてもらって構わないけど」
「あたしは桐葉と同じやつでいい。
この前食べたちんじゃおろーすーとかいうのも美味だったが、今日は桐葉に合わせるとしよう」
でもまあ、食事を奢るくらいならいいかな、なんて。
嬉しそうなその小さな背中を見つつ、そんな風に思い直して俺は食堂までついていったのだった。
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