A book
[Fortune Arterial short story]
初夏、と表現するのが最も適しているであろう季節になった。
ときたま肌寒さを感じた夏服も今ではむしろそれでも暑く感じる日があるくらいで、クーラーが稼働するまでのこの期間をより快適に過ごすべく、ここ最近はこの監督生室の窓という窓、扉という扉は全てが開け放たれている。特に正門側から入ってくる風は、給湯室を通って山の中へと熱気を運び去っていってくれるためにとても重宝していた。
このあたり、校舎よりも高台にあるという地の利がきいているのだが、まあそれは生徒会特権ではなく偶然というやつだ。遠慮無く利用させてもらっている。
そうして東儀先輩が持ってきた風鈴――ちなみに見るからに高級品だ――のちりんちりんという音を聞きながら、放課後というこの時刻、ここ監督生室で作業をしているのは俺、紅瀬さん、副会長の三人だけ。
というのも白ちゃんはローレル・リングの活動中で、東儀先輩は各部活の夏の大会に関する会議に出席中だからだ。残る会長は「ちょっと諸先生方と親睦を深めに行ってくるよ」なんて言っていたので何かと思ったが、後から副会長に聞けばつまりは「職員室はクーラーが効いてるから」ということらしい。
それでも副会長や東儀先輩が黙認するあたりからして、仕事の一環でもあるのだろう。たぶん。あるいは止めても無駄と呆れてる、年中行事の一つなのかもしれないが。
「よし、終わった」
吐き出すように言いつつ、きっ、と少しだけ力を込めたボールペンを停止させる。最後の書類の右下に「生徒会役員・支倉」と確認のサインをしたことをもって、はじめはちょっとした本が作れそうなくらいはあった書類の山の攻略が終了したのだ。
書類を目の前からどかし、凝り固まった身体をほぐすためぐっと思い切り伸びをする。同時、深呼吸。ちょうどよく窓から流れ込んできた風が、俺の身体からも気怠い熱気を奪い去っていってくれた。
「私もこれで終わり、っと。
紅瀬さん、そっちはどう?」
「もう終わるわ」
その返事を聞き、対面で俺と同様に書類と格闘していた副会長も倣うようにぐぐっと、椅子から転げ落ちるんじゃないかってくらいに大きな伸び。気持ちよさそうに「んー」なんてうなっているその表情は、まるで猫かなにかのようだ。
そしてまた、ほどなくしてカタン、と一つ大きくキーボードが打ち鳴らされる。紅瀬さんの作業も終了したらしい。フリーズさえしなければ、紅瀬さんのパソコン業務もそれなりに早いものだ。
一気に弛緩する室内の空気。
副会長はそれでも書類をとんとんと揃えて、机の上を軽く整理した。相変わらず、そつがない。
「でもいいわね、やっぱりこの時期は楽で。
文化祭の準備が始まると、こうもいかなくなるんだけれど」
しかも仕事が終わったばかりだというのに、出てきたのはちょっとだけ溜息混じりの言葉。
経験はないが、なんとなく予想はつく。体育祭ですらあれだったのだから。
「そろそろ各クラスが動き始める頃、だっけ?」
「ええ。
それと文化祭が近づくにつれ、獅子身中の虫が沸くのよ。うちの生徒会には」
「あー」
「貴女のこと?」
「ちょっと紅瀬さん、なんで私なのよ!
兄さんに決まってるでしょう」
決まっている、とまで断言されても同情の余地がないあたり、もうなんともいいようがないというか。
つまり仕事をするどころか、仕事を増やすようなことをしまくるということだ、会長は。
けど、そんな頭の痛くなるような事案を、何も仕事が終わったばかりのいましなくてもいいだろう。
さっさと切り上げることにしようとして、窓の外が明るいことに気付く。時計を見た。
「まだ帰るにはちょっと早いな……。
ここ、勉強とかで使ってもいいんだよね?」
「ええ、構わないわよ。
学院にまだ生徒たちが残っている間はどうせ留守にできないから、ちょうどいいんじゃない? 私もしようかしら」
「特に数学を?」
「……っ!」
副会長は紅瀬さんの呟きに一瞬凄い形相で立ち上がりかけたものの、挑発と気付いたのだろう、どことなく眉をぴくぴくさせながらゆっくりと姿勢を戻す。冷静を取り繕うとしているその無情な笑みが、怒ったときより遙かに怖い。そうだろう? 爆弾は爆発せんとしている状態が一番恐ろしいのだから。
そしてまた、古くから言われている。触らぬ神に祟りなし、と。であるがゆえに、当然、触らぬ吸血鬼にも祟りなし、だ。俺は無関係を装って、かつ紅瀬さんがまた何か言おうとしたら即座にインタラプトするように神経を研ぎ澄ませつつ、鞄から適当にぱらぱらと本を引っ張り出す。文化祭の仕事のきつさを想像するのも嫌だが、かといってここでまた一悶着起こされるのも良いことでは決してない。
そして、そう、おそらくはそれがいけなかったのだろう。
全神経はこの場を穏便に済ませるために向けられていたのだ。だから俺は、チェックなどしなかった。俺が何の本を鞄から出していたのか、なんてことを。
「あら? 支倉くん、本なんて読むの?」
「うん?」
爆発直前だった副会長の、ちょっとばかりの驚嘆に覆われた声。そりゃ本くらい読むには読むが、と思って副会長の視線を追えば、そこには数冊の教科書に交じって鞄から机に引きずり出されたとある文庫本。無地のブックカバー付きだ。
はて最近文庫本なんぞ持ち歩いていたっけ、なんて疑問に思うことしばし。そして直後、脳髄を駆け上がるような閃きでぴきーんと思い出した。
いや、表現を変えよう。
思い出してしまった、と言うべきだ。
「ん……?
なに、支倉くん。もしかして文庫じゃなくて、漫画とかだったりするのかしら?」
「え、あ、いや、違うけど……」
「そうよねえ、まさか生徒会役員ともあろう者が校則違反なんてしていないわよねえ」
俺のほんのわずかな動揺を見逃さなかった副会長の洞察力。普段は深く感心してしまえるそれも、自身に向くということになればその恐ろしさは計り知れない。
だが、違うのだ。
本当に、校則違反などしていない。俺はそれゆえに、びくっと肩を震わせるなどという愚かしい反応をしていしまったわけでは断じてない。それが、その本が、漫画だというわけでは本当にないのだ。
実際、この本の存在を指摘されて、平然と答えを返した同級生を俺は知っている。俺にその剛胆さの欠片でもあれば、と思わずにはいられない。……が、それも後の祭というものだろう。
「見ていいかしら?」
「あ、ああ。うん。
ただの文庫だよ。人から借りたんだ」
「いえ、別に疑っているわけじゃないのよ?
けどそれなら、別にあんな反応を返すこともないと思って、一応ね、一応」
言いつつ、副会長の手が机の上、無地のブックカバーに包まれたその文庫へと伸びる。その白い綺麗な手がその本を掴んだこと、その行為を艶かしく思ってしまったのは、さすがに仕方ないことだとは思う。
副会長はその本を疑り深い表情のまま手元へともっていき。
そして、俺は念じる。
頼むから気付かないでくれ、と。
かくして。
「……なんだ、本当にただの文庫本じゃない。
それも小説? 支倉くん、てっきり教養ものとか読んでると思ったのに。意外ね」
ぱらぱらっと中を流し見る副会長。
その態度に、俺は大きな安堵の息を吐かずに居るので精一杯だった。ここでほっとするような反応を見せてしまっては、いわゆる二の舞というやつだ。同じドジを二度も踏みはしない。あえてさっきからの緊張感を保とうとしたまま、それでいて緊張感を隠すという三重の演技で必死にこの場を取り繕おうと必死になりつつ、その必死さすら覆い隠さんとする。
それほどに、俺は必死だった。
そして、おそらく疑った後ろめたさもあるのだろう、副会長は本を閉じて俺へそれを返そうと腕を伸ばしてきた。必死に冷静さを保ちつつ、俺はそれを受け取ろうとして。
「官能小説」
声が、した。
本来は俺が止めるだったはずの、挑発という名の悪魔の囁きが。
「え? かんのう……?」
「紅瀬さん、ちょっと待て、何言っ――」
「官能小説」
いつかのように、平然と繰り返す紅瀬さん。
だが当時と違うのは、いつの間にやらパソコンのある机から俺たちの近くに移動していた紅瀬さんの、その瞳に確信的な悪戯心が交じっていること。そして、口元がかすかに笑っていること。
「あ、えと、その、まあ漫画じゃなかったってことで――」
「私が貸した、官能小説」
「三回も繰り返さんでいいっ!」
言いつつ、すぐさま右手をその差し出された本へ振るも、音速もかくやというスピードでそれは引っ込められた。ぶん、と俺の右手が何もない空間を素通りする。
当然戻された先は、本を持っている副会長その人の手元。
「確認するわ」
「ちょ、副会長! 漫画じゃなくて小説だったんだし――」
「いえ、別に疑っているわけじゃないのよ?
けどそれなら、別にあんな反応を返すこともないと思って、一応ね、一応」
一言一句違わず、先ほどと同じ台詞をリピートする副会長。だがしかし、今度のソレに感情はまったく籠もってはいない。そしてどこか浮ついた表情だった先ほどとは対照的に、今は鬼をも射殺さんほどに真剣な顔つきだ。
でも、俺に演技をするだけの気力が残っていようはずもなく。
だから「確信」という名の導火線がついた爆弾は、さっきの流し読みとは違う、明らかに「ある場面」を探すために本をじっくりさっくり読み込んでいって。
「………………。
ねえ、支倉くん」
「はい! なんでしょうか!」
思わず敬語。
「人生の最後はどんな風に迎えたいかしら?
そうね、兄さんのときとは違って、せめて遺言くらいは聞いてあげるけど?」
「いや、待ってくれ副会長。
そうだ! 紅瀬さんも何か言って――――って、居ねえっ!?」
ちょっと目を離した隙、その姿は忽然と消えていた。なんという確信犯。
「……ま、紅瀬さんの方にはおいおい確認するとして」
俺が視線を走らせている間に、ゆらり、と副会長が椅子から立ち上がる。何かを吹っ切ったにこやかな表情。当然のように目は笑っておらず、その威圧感は鬼というより閻魔のそれだ。そのままこつ、こつ、とわざと足音を立てながら机をまわって俺の方へと歩み寄ってくる。
それに対し退くことも立ち向かうこともできず、思わず半腰の間抜けな態度を晒した俺を一体誰が責められるというのか。
「……」
こつ、こつ、ぴたり。
三メートルほどの距離を開けて、副会長が立ち止まる。
……ああ、知っている。知っているとも。
障害物のないこの距離は、踏み込んでの右ストレートを会長にぶちかますときの副会長にとっての最適な間合いだ。
だから、閻魔が俺に下す判決は言うまでもなく決まっていたのだ。
「……さ、支倉くん」
それでも、副会長は一瞬、本当に微笑んで。
「副会長……?」
だから、思った。
そうだ。副会長だって分かっているはずだ。近代の文学界における性風俗描写は、現代のエンターテイメント系のそれとは似て非なるということに。谷崎潤一郎という名は俺ですら知っているのだ、いわんや博識そうな副会長をや。そうだ、そうだとも、だからきっとこれは和解の笑みに違いない。
――などと、思考が楽観に逃げたこと、そしてそれが罠だったことを自覚したときには、時既に遅し。
一瞬にしてかき消えた副会長。
埃が舞って、怒号一閃。
「頭冷やしてきなさああああああああああああいっ!」
目で捉えることすらできぬ速度でその豪腕が振り抜かれ。
もはや痛いとかなんだとか感じることすらままならぬまま、俺の身体は遥か虚空を舞ったのだった――。
○ ○ ○
翌日、休み時間。
まだ痛む鳩尾をさすりつつ、俺は後ろの席へと振り返って、俺に激痛を与える原因となったそれを持ち主へと差し出した。
「紅瀬さん、これ、返すよ」
「そう。読んだの?」
「ああ、今日さっさと返そうと思って、昨日一気に」
「律儀ね」
自分でも律儀だとは思うが、しかし本には罪はないのだ。読まずに返す、という行為自体気が引けるし、だから昨日頑張って読み切っただけのこと。……まあ、紅瀬さんが昨日あんなこと言わなければ、こうなることもなかったのだが。
そして紅瀬さんはその本を手にし、鞄に仕舞おうとしたところで。
「あっ、こーへー! きりきりに何渡したの?
珍しいよね、こーへーが文庫本だなんて」
陽菜にちょっかいをかけるためにうちのクラスに来ていた風紀委員長様が、めざとくもそれを見つけて。
「へえ。孝平くんってどんなの読むの?
紅瀬さんがいつも読んでるやつだよね?」
「紅瀬が小説、孝平が漫画とかなら分かるが……共通の読み物となると見当もつかないな」
なにごとかと、陽菜と司までもが寄ってきて。
「それで、何を貸したの、きりきり?」
「かなでさん、それは――」
そして、俺が止める暇すらなく、彼女は当然のようにそれを言うのだ。
「官能小説」
瞬間、空気がピキッと氷のように固まって。
……昨日の空中散歩に次いで、どうやら今日は風紀シールによる罰が待っているらしいなと、俺はどこか他人事のように思うのだった。
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