支倉の大

[Fortune Arterial short story]
 忘れられがちな事実だが、修智館学院はかなりハイレベルな進学校である。俺も転校時には転入試験を受けさせられて、それに合格している。転入試験の性質上、俺がボーダーラインから見てどのくらい上の点数を取ったのかは知る由もないのだが、司が言うには「転入は相当厳しい」そうだ。情報源が司というあたりかなり微妙な部分もあるものの、司は司で(成績はともかく)頭が悪いわけでもなし、おそらく事実だろう。そもそも多感な思春期を全寮制で過ごせる忍耐力のあるやつらは、往々にして勉強くらいは楽にこなせるのかもしれない。

 そしてまた、そんな進学校の中でも、あるいはまたそんな進学校だからこそ、生徒会というのは他の生徒の規範となっていて、羨望も集めている。どこぞの不良校なら生徒会なんていうのはクラスの面倒ごとを押しつけられた生徒の集まりになっているが、ここ修智館学院はそんな状況とはほど遠い。生徒会役員であることを振りかざせば食堂に並ばなくて済むくらいのことは、実際に可能である(やらないが)。もちろんそれは制度上というわけではなく、生徒たちからの信頼の篤さという意味においてだ。

 で、そんな生徒会だからこそ、生徒たちの信頼に応え、またふさわしい生徒でなければならず、それを手っ取り早く、かつ一番正しく示し得るのは、

「――では!
 文化祭が終わってすぐで骨休めしたいのも山々だけど、これより生徒会は試験モードに突入する!」

 文化祭も終わり、いまだ夏の暑さの残る九月中旬、その放課後。
 会長の声が監督生室に響き渡った。



       ○  ○  ○



 夏休み明けに試験があると聞かされたのは、二学期が始まってからのことだった。
 経験はある。いわゆる「夏休みの成果を試す」という建前の、「夏休み中に勉強をサボっていたお前らに危機感を植え付けてやる」という教師の教師による教師のための策略に満ちた試験だ。殊に進学校ではよく実施されているのを、俺は長い転校生活で身に染みて分かっていた。だから修智館学院でもあるのは、当然と言えば当然だったのだ。
 気付かなかった理由は単純。生徒会の仕事でそれどころではなかっただけ。夏休みは丸々文化祭の準備にあてていたし、司やかなでさんとは勉強の話になるはずもなく、始業式にアオノリから聞かされるまでまったくこれっぽっちも意識に昇ることはなかったのだ。

 今にして思えば、たいそう愚かなことである。かつての俺なら、いち早く気付いたろう。「転校生は波風を立てない」。その誓いを実行するには、学校の予定を事細かに把握することが不可欠だったから。どんな些細な予定でもあらかじめ頭に入れておいて、目立たないよう、無害なように振る舞う算段を立てる。それが俺の処世術だったし、そうであれば試験の日程を確認し忘れるなんてことはあってはならなかったのだ。
 だから、それを忘れていたこと、そのことが少しだけ嬉しいと言えば嬉しかった。

「あら、勉強中ににやにやするなんて、忘れてたというわりには随分余裕ね、支倉くん?」
「あ、いや」

 怒られた。

 というわけで、試験モードに突入した監督生室で目下勉強中の我が身である。机の上にはそれぞれの教科書や参考書が所狭しと並べられていて、お互いに相手の参考書を借りたり貸したり。学院の図書館所蔵のものや、東儀先輩が昨年使っていたというものもある。来年は白ちゃんに渡すという条件付きで借り受けたのだ。

「でもすごいわねー、征一郎さん。この注釈、全部白ちゃんのためでしょ?
 参考書の説明不足の部分はきちんと説明してあるのに、肝心の答えを書いてない。ただ解くより遙かに時間かかるわよ、これ」

 集中力が切れてきたか、俺の対面に座って東儀先輩の参考書をぱらぱらとめくっていく副会長。「おー」とか「ふーん」とか感心したような声をあげつつ斜め読みしていっているようだが、その注釈のすごさが分かる副会長も相当なもんだと思う。どこが重要かを理解していなければ、そこが確実に抜け落ちている東儀先輩の注釈のすごさも分からないのだから。

 まあすごい人はすごい人同士で会話していてくれ、と割り切って自分の勉強へと戻る。科目は数学。一番苦手なものだ。
 理由は簡単で、端的に言えば転校しまくっていたから。数学というのはきちんと体系的に学ばないとかなり混乱をきたす科目であって、転校するたびに「前の学校ではここまでやってた」「前の学校ではここをやっていない」という状況に直面するため、知識がかなり虫食い状態になっているのだ。暗記科目なら虫食い分点数が落ちるだけだが、数学では基礎部分に穴があるとその分野全てが抜け落ちてしまう。しかも解いてみるまで自分の穴がどこにあるか分からないというオマケ付きだ。

 だがしかし!
 今回の試験ではその汚名を挽回……ではなく、返上する機会が訪れたと言っても過言ではない。なぜなら、

「孝平。それは式変形ではなくて、帰納法で処理すべきね」
「あ、そっか」
「……む」

 今回は生徒会新役員にして史上最強の助っ人・紅瀬桐葉その人が居るからである。

 そのまま桐葉は俺のノート上をその白い指でつつつっと動き、先ほどまで俺が解いていた箇所でぴたっとそれを停止させて、

「あとこっちも違うわね。これだとθとrが初期値を満たせない。
 作成者はベクトルを使わせたいようだけど、複素数で解くべきでしょう」
「おお、すごいな。そこまで分かるのか」
「……ねえ」
「これはテイラー展開した後、背理法で――」
「ああ、そこまでは分かるけど、その次の――」
「……ちょっと!」

 どばん、と机が叩かれる。思わず顔を上げた。
 なぜか副会長が怒っている。

「あ、悪い、うるさかったか?」
「そうじゃなくて。
 ねえ、紅瀬さん。あんまりお節介を焼くのも、支倉くんのためにならないんじゃないかしら?」

 矛先は桐葉に向けられた。

「……」

 俺の横の椅子に座る桐葉は、少しばかり「意味が分からない」という表情をしたあと、いつものように(というのもアレだが)にやっと口の端を吊り上げた。短い観察期間ながらも、これは俺や副会長の前でしかしない表情である。副会長は気付いていないだろうけど。
 そしてやや身を乗り出しつつ俺のノートに手を置いていたその体勢を、もっとぐぐっと近づけてきた。綺麗な黒髪は俺の頬へと触れるくらいに近く、少し視線をずらせば制服の上からでも分かる大きな胸が俺のすぐ肩口にある。相変わらず口元は歪んでいて、目は前を見ていた。

 そして、一言。

「だって、貴方じゃ教えられないでしょう、数学は」
「――」

 ピキ、と何かが切れていく音。
 桐葉が来て以来、すっかり聞き慣れてしまった、ある意味ではなじみの音だ。まったくもって嬉しくなく、かつ間違いなく厄介事が起こる音。黒猫が前を横切るよりも確実に不幸になるのだ、俺が。

 しかしまあ、そのくらいで負ける副会長ではない。言う方にとっても言われる方にとってもいつものことだからだ。すぐさま笑顔を取り繕う。……ちょっと怖い。

「じゃあ他の『数学以外の全ての』教科は私が教えてあげるべきかしら?」
「それなら勿論私にも教えてくれるのね?
 貴方たちは私に良い成績を取らせたいようだし、それなら私が孝平と一緒に教えてもらうのが道理でしょう?」
「くっ……!
 ええ、いいでしょう! いいですとも! 私情で生徒会に落ちこぼれを作るわけにはいかないもの!
 さあ、さっさと地理の準備!」
「え? でも俺、地理は割と……」
「いいからっ! 紅瀬さんも!」
「ふう」

 有無を言わせぬ様子でさっさと数学の参考書を端へと追いやり、地理の教科書を引っ張り出してくる副会長。俺は桐葉から教えられた解法を軽くメモった後ノートを閉じて、渋々と地理のノートを引っ張り出した。耳元では桐葉が一つ溜息。

「ほら、紅瀬さん! あなたは数学以外がからっきしなんだから!」
「数学は貴方にも勝ってるけれどね」
「ぐぬぬ……!」

 ピキピキッと再び切れていく何か。
 血を吸わない吸血鬼なのに血圧は高いらしい。

 桐葉はその様子に若干満足したのか、俺からふっと離れて自分の席へと戻る。相も変わらず広げていた数学雑誌をしまい込み、近くにあった英語の辞書を引っ張り寄せた。
 普段に比べると文句の一つもなく、それどころか副会長の言うことに従うなんて随分と素直な態度――――って。

「ちょ、ちょっと、何で英語の辞書なのよ?」
「なぜって、高さが丁度いいからよ」
「は? 高さ?」

 副会長が呆気にとられる中、桐葉は辞書を自分の目の前において、くるくるとしばし角度を考えた後、ぴたっと停止させ、そしてその上に腕と頭をこてっと乗せた。まさか。

「強制睡眠が来るような気がしなくもないから寝るわ。
 数学の時間になったら起こしてちょうだい」
「……」
「……」

 『強制』なのに起こせるのかよ、と俺がツッコミを入れるまでもなく。眼前、般若のこめかみからブチッと大きな音が鳴って。

「真面目にやれえええ――――――っ!!」

 とうとう副会長が決壊した。



       ○  ○  ○



「……で、こうなったのか?」
「はい」
「すみません、征一郎さん」

 自分は無関係とでも言いたげなそっけない態度を取る桐葉と、しゅんと縮こまって頭を下げる副会長を前に、東儀先輩は大きく溜息を吐いた。怒りも収まったのか、あるいは怒りを通り越したのか、随分と呆れている声音。
 原因はもちろん、

「結構古い調度品だったんだけどねえ、コレ。
 ま、瑛里華の馬鹿力に耐えられる机なんてそうそう無いさ。それこそゾウが乗るより重いんだからね。はっはっは」

 会長が笑いながら手を掛けている、真っ二つに割れてしまった机である。
 ちなみに真っ二つといっても綺麗なそれにはほど遠く、一カ所に極度の加重がかかったがゆえの粉砕と言って差し支えない。辺りには破片も散らばっている。掃除は面倒くさそうだ。

「机が無いままというわけにもいくまいし、予算を組み直すしかないな」
「重ね重ね、ほんとごめんなさい、征一郎さん」
「壊”し”てしまったものは仕方ない。次からは気を付けろ」
「はい……」

 少しだけイントネーションを変えた東儀先輩の言葉は、ちょっとだけ怖かった。後ろの方では「いやいや、征、次からは瑛里華専用にダンボールで作った机なんかどうだい?」などと茶化した声がしている。もちろん俺と東儀先輩は必死でスルー。いらぬ波風は立てたくない。

「さて、机がないのではここに居ても仕方があるまい。
 二人とも、部屋を出ろ」
「東儀先輩たちは?」
「もちろん俺も出る。
 瑛里華、戸締まりは任せたぞ」
「はい、征一郎さん」

 笑顔で答える副会長。俺と桐葉は東儀先輩に促されるまま、監督生室の出口へ。

「あ、待てって、征。俺も――」
「兄さんはここに残りなさい」
「え? もしかして紅瀬ちゃんの勝つために数学の特訓をしてほしいのかい?
 いやあしかし、俺はいくら瑛里華のためとはいえ紅瀬ちゃんに敵対するような――」
「紅瀬さん。明日までの宿題、忘れないようにね?」

 会長の言葉をさらっと流して、副会長が桐葉へと言葉を投げる。

「貴方こそ、ちゃんとできればいいけれど」
「……くっ」

 そうして俺たちは監督生棟を出て、やや早い帰路へと着いた。



       ○  ○  ○



 礼拝堂へ白ちゃんを迎えに行くという東儀先輩と共に、監督生棟から広場へと続く階段を降りていく。もちろん桐葉も一緒に。夕暮れ時だというのに残暑はまだまだ厳しく、この分だと九月いっぱいはこの調子なのだろう。

「しかし、紅瀬。あまり瑛里華を刺激するな。
 こうもたびたび備品が壊れてはたまらん。もちろん、瑛里華にも原因はあると思うが……」
「気を付けます」

 あまり気を付けるつもりはなさそうな返事。言っても無駄であろうことは東儀先輩も分かっているようで、今度は目を俺の方へと向けてきた。アイコンタクトで伝わった言葉は「紅瀬と瑛里華を抑えてくれ」。そんな無茶な。

「でも備品って、そんなに壊れてます?」
「ああ、そういえば支倉が知らないものも多いか。
 今日の机を筆頭に、既に急須や卓上灯なんかが被害を受けている。いずれも交換可能なものなのが幸いしているが、一番多いのが――」
「――ッ!?」

 東儀先輩の言葉の途中、いきなりの甲高い破砕音が後方から響いてきた。どう聞いてもガラス窓が割れた音。振り返ればそこには監督生棟と、吹っ飛んでいく会長のような形をした物体。「アホ―――――ッ!!」というような副会長の声が一緒に聞こえてきたのも、錯覚だということにしておきたい。

「――……」

 東儀先輩の言葉が止まる。言わずもがな、といったところ。起こる気力もないのか、腕を組んで黙ってしまった。むしろあるいは、口を開けば冷静である自信がなくなったとか。
 話題を変えよう。

「ところで、桐葉。
 副会長と別れ際のアレ、なんだ?」

 今までの話は自分には関係ないと思っていたのか、ぼけっと明後日の方向を向いていた桐葉がこっちへと向き直る。

「大したことじゃないわ。
 あのあと、お互いに課題を出そうという話になったのよ」
「ほう」

 課題の出し合いという名の喧嘩か。

「私は数学以外の全ての教科の問題集をやらされることになったわ。ご丁寧にページ数まで指定されて」
「やるのか?」
「どうかしら」

 ふふ、と不敵に笑う。
 こりゃ絶対やらないに違いない。

「桐葉は何を出したんだ? やっぱり問題集?」
「いいえ、面倒だから一問出しただけ。それも簡単なやつをね」
「……?」

 よく分からない。ここは腹いせに腐るほど問題をやらせる場面ではなかろうか? それともそれすら面倒くさいか。後者も充分ありうる。
 そう考えていると、いつの間にやら冷静さを取り戻した東儀先輩が口を開いて。

「新たな火種の可能性があるな。
 瑛里華に出した問題を聞いて良いか、紅瀬?」
「言うほどのものではないけれど。
 『nが3以上の自然数なら何でもいいから、x^n+y^n=z^nを満たす0以外の自然数n、x、y、zの組を1つでも出しなさい、出せないなら出せないことを証明しなさい』という問題よ。子どもだって理解できるわ」
「……」

 東儀先輩が頭を抱える。桐葉はいつも通りのように見えて、少しだけ口の端が上がっていた。
 つまり、そういうことだ。

「明日は伊織の言うとおり、ダンボールの机でも用意しておいた方が良さそうだな……」

 呻くように呟く。

 ……どうやら桐葉のせいで、明日も副会長の血圧が上がることは決定事項のようだった。そしてまたそのとばっちりを俺や東儀先輩が受けるということも、おそらくきっと決定事項で。

「それでは紅瀬、支倉。俺は礼拝堂に寄っていくから」
「あ、はい。お疲れさまでした」
「ああ、お疲れ」

 東儀先輩が礼拝堂の方向へ歩き去っていく。
 隣に居た桐葉と共に、それを見送って。

「さて、んじゃ行こうか」
「ええ」

 ……これはたぶん桐葉が入った生徒会の新しい方程式になるんだろうな、と。
 そんなことを思いながら、長い坂をゆっくりと下りていったのだった。





       ○  ○  ○





 翌日。

「ふ、ふふふ、ネットや書籍を使って解答を用意してきたわ……。
 だいたい何よ、あの出し方! 最初っから出ないなら出ないって言いなさいよ! しかも360年間解けなかったって、どんだけ古いのよ!」
「まあまあ。しかし凄いな、副会長。レポート用紙何枚分だこれ。
 ……で、桐葉は?」
「何が?」
「いや、何がって、問題集の」
「何でやる必要があるの?
 課題なんていうのは、分からなければ『分かりません』で済むものだもの。無駄に時間を割いてやる必要はないわ」
「……」
「……」

 ……ごめんなさい、東儀先輩。
 俺が簡易長机を持ってきたせいで、どうやら生徒会の予算がまた減りそうです。


++++++++++


Short Story -Fortune Arterial
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