放課後、二人、体育倉にて

[Fortune Arterial short story]
 急激な目眩といつもの予兆を感じ取り、征一郎は机に肘をついた。
 油断していたことを後悔しても、もう遅い。既に今は授業中。普段から眠っている生徒であればともかく、自分が机に伏せってしまえば間違いなく教師に訝しまれるであろうことくらいは、征一郎とて分かっていた。
 前兆はあった。それでも彼が大丈夫だと判断したのは、征一郎のソレ――強制睡眠が、桐葉や孝平のそれとは多少異なるせいである。いつソレが訪れるか直前になるまで分からない、突然糸が切れた人形のように崩れ落ちてしまう、などなどの二人の弁を聞いて、征一郎は不思議に思ったものだった。彼のソレと二人のソレの違い。それは彼の方が合間の間隔が長く、強制睡眠自体の長さも不定期で、そして何より、いくぶんかは我慢できるということだった。実際、彼は瑛里華の問題が解決するまで我慢に我慢を重ねて理性を保つことに成功していたし、今の今に至るまで伊織に自分のことがバレていないのもその性質によるものだと思っている。その性質が桐葉のようなものであったなら、少なくとも生徒会の人間に隠し通すことができないであろうことは容易に想像できるだろう。
 だから、油断した。前兆は今朝。しかし既に支度を整えた身、いきなり学院を欠席するというのもそれはそれで彼は不自然な気がして――そしてまた妹に心配をかけまいとして――、とりあえず今日は登校しようという結論を下した。幸い自分はソレを我慢できるから、と。眷属になって幾年、それに加えて自分以外の眷属の話を聞く機会も増えて、気が緩んでいたに違いない。
 どうすべきか。征一郎は霞み始めた意識の中、ただそれだけを思案する。
 選択肢は多くない。しかし、ある。当然だ。命を懸けても隠し通すと決めた以上、東儀征一郎に完全な不測の事態というものはない。
「ん? どうした、東儀。調子でも悪いのか?」
 机に肘付き、頭を押さえる征一郎に教師が気付く。常に黒板や教師を射抜くような視線で集中し続けていた征一郎だ、その頭が垂れれば誰であろうと気付いて当然。
「……すみません、先生。
 気分が優れないので、少し休んできて構わないでしょうか」
「ん、そうか。分かった。
 こういうときは無理しないでいいんだぞ?」
「ありがとうございます」
 一礼し、授業中の教室、クラスメイトたちの心配そうな視線を集めつつ征一郎は後ろの扉から廊下へと出ていく。
 選択肢はあるが、残り時間はあまりない。鈍い思考で行動を取捨選択し、征一郎は廊下をゆっくりと歩き始めた。



       ○  ○  ○



 急激な眠気といつもの予感を感じ取ったころには、司は廊下をぶらぶらしていた。
 油断はしなかった。時間は相性が悪い数学。普段から眠っている生徒である司は、自分が机に伏せってしまえば間違いなく教師に叩き起こされることをよく分かっていた。
 前兆もあった。前回の授業、司を寝かせまいという教師との攻防により、その睡眠の質は大きく落ちていたのだ。もう一度それをするくらいなら、抜け出して別の場所で寝てしまえというのが彼の至った結論である。実際、彼は休み時間を逃さぬため、我慢に我慢を重ねて理性を保ったまま休み時間を迎えることに成功していたし、今自分がサボれていることもその努力によるものだと思っていた。その昼寝が普段のようなものであったなら、間違いなく休み時間もぶっ通しで寝続けて、気付けば教師との攻防が始まっていたであろうことは容易に想像できる。
 だから、油断しなかった。理由は昨日のバイトが長引いたこと。しかし既に評定がギリギリな身、またもや学院を欠席するというのもそれはそれで危ない気がして――そして事実危ないのだが――、とりあえず今日は登校しようという結論を下した。幸いサボリ場所はいくつかあるから、と。この学院に入って幾年、その成果は計り知れない。
 どうすべきか。司は歩きながらも半分寝つつ、なんとなくそんなことを考える。
 選択肢は多い。当然だ。教師に一日中見つからぬ場所で眠り通すと決めた以上、八幡平司に妥協というものはない。
「さて、どこにするかな」
 屋上、体育館裏、用具室、授業予定のない実験室、同様に調理実習室、礼拝堂の椅子、講堂、旧図書館、敷地内の日当たりの良い木陰……思い浮かべては、消していく。理由は気分と勘。それ以外にない。
「……よし。
 こういうときは無理しないに限る」
 授業中の廊下、教室内の生徒や教師たちの目を逃れつつ司は廊下の角を曲がる。
 選択肢はあるが、さっさと眠りたい。気の向くままに目的地を取捨選択し、司は廊下の端、階段をゆっくりと降り始めた。



       ○  ○  ○



 体育倉庫。
 そここそ、司が孝平に焼き肉定食を奢られようとも教えるつもりはない、トップシークレット中のトップシークレットな場所。
 まず、立地条件がいい。こんなところを巡回するほどに暇な教師というのは皆無だし、それでいながら教室棟からほど近い場所にある。建物は違うが、屋上までの階段を登るより遙かに楽に来ることが出来るくらいだ。
 そして、イメージが悪い。体育倉庫、という響きから、煙たいような、臭いような、埃っぽいような、そんな印象が先行する。実際にはそんなことはないのだが――無論、マットの上などは避ける――、このイメージのせいでサボりポイントを奪い合うライバルが来ることはほとんどない。そしてそのことが、教師たちの監視ルートから体育倉庫が外れることに拍車をかけてもいることも、司は分かっていた。
 最後に、過ごしやすい。体育館の冷暖房の余熱が残っていることもあるし、その構造からか、夏は涼しく冬は暖かい。当然雨風に晒される心配もないし、照明だって好きに切り替えられる。
 以上三点。これを満たす物件は、少なくとも学院内には体育倉庫以外には無いと、数多の経験をくぐり抜けた司は確信していた。だからこそ絶対に他人に見つからないよう、よほど気分がのったとき以外は来ないようにしているのだ。いざとなれば必殺の寝床がある。その安心感は計り知れない。
「あー、コーヒー買ってくるの忘れたな……」
 無論、昼寝から起きた後、目を覚ますためのものである。
 ボヤきつつ、司は体育館の壁沿いを歩き、教室棟から見えないよう遠回りして倉庫の入り口へ。用具を出すための大きな扉をゆっくり、そっと、じっくり、地道に、音を立てないように、ギリギリ自分が通れる程度だけ開けて、さっと中に入りさっと閉じる。あとはもう、寝るだけでミッションコンプリートだ。
「……おっ」
 ざっと中を見渡し、お目当てのものがあることに司は安堵する。それは枕。いや、実際には枕ではなかろうが、それを枕として使う以上、司にとっては枕以外の何者でもない。たとえ卒業式や入学式に使われる紅白幕入りの袋であろうと、寝やすくするために頭の下に敷かれるものであるなら、それは枕なのだ。そしてそれ以外の用も、司にとっては、ない。
「さて」
 棚に置いてあるそれを無造作に床に投げ出して、その上に頭をぼふっと乗せて横になる。堅苦しい思いをしなくていいという点で、司にとってその寝心地は保健室のベッドの上に勝るとも劣らない。
 放課後まで時間はまだまだある。目覚ましをかけずとも、バイトまでに一度くらいは起きるだろう。そう判断し、司は目覚ましをセットすることなく意識を落としていく。心地よい睡魔に身を委ねて。

 ……そして実際、彼は二時間後に起きるのだ。窓から差す光は二時間分、つまり約三十度ほど差し込む角度を変えていて、その明るさを不快に感じると同時、見ることになる。
 体育倉庫の奥。
 予想だにしない人物が、そこに居ることを。



       ○  ○  ○



 目覚めの感覚は、睡眠からの起床とそう大差はない。
 当然だ、と彼は思う。精密検査ができようはずもないが、停止中も身体機能が維持されている以上、強制睡眠と通常の睡眠の違いはその”強制さ”くらいしかないのだ。であれば意識の回復に有意な違いが見られようはずもないし、少なくとも彼は自身の主観において、その二つに決定的な差異は見られないとみなしている。身体の倦怠感については、睡眠時間の長短によるものとして説明がつこう。
 浮上していく意識。それに伴い、彼は段々と思い出していく。どうしてこうしているのか。空気が違う。体勢が変だ。床が堅い。それらの感覚は、疑問というよりむしろ自らの事態把握が正常であるという客観的な証拠として、彼――征一郎に受け入れられていって。

「お、ようやくお目覚めってとこかな」

「――っ!」
 突然かけられた声に、征一郎の意識が一気に跳ね上がる。思わず後ずさった失態を意識することもないまま、眠るときに外した眼鏡を手にする余裕もないままに、彼が驚きに染まったその端正な顔を持ち上げると。
「八幡平……?」
「さすが、生徒会のお偉いさん。生徒の名前は覚えてるわけか」
 視線の先。小窓から差し込む光に照らされながら缶コーヒーを飲んでいる、八幡平司がそこにいた。
 なにも、征一郎とて全クラス全生徒の顔とフルネームを覚えきっているわけではない。それでも彼のことはよく知っている。おそらくは、一方的に。八幡平司。紅瀬桐葉と並ぶ学院指折りの問題児で、こと生徒指導部の教師との会話ではよく名前が挙がる。この学院では珍しい風貌でもあり、少なくとも征一郎にとっては「その他大勢」に区分けされていない生徒のうちの一人だ。
 それがなぜここに――という疑問は意味をなさない。当然だ。むしろ逆ですらある。授業中、体育倉庫で眠っているべきは問題児であって、生徒会所属の優等生ではないのだから。
「……そんな難しい顔をしなくても。
 別に誰にチクろうってわけでもない。ただ、珍しいと思っただけだ。ええと……」
「東儀だ。東儀征一郎。
 ここで寝ていたことを弁明するつもりはない。見つかった以上は、相応の責任を取る覚悟はできている」
「おいおい、話を勝手に進めないでくれって。
 あんたがどう責任を取ろうが構わないが、それはつまり俺もそうしろってことだろ?」
「当然だ」
 征一郎は眼鏡をかけ直しながら応じる。
 自分に厳しく、他人にも厳しい。自分と相手が同様の違反を犯していたのなら、分別なく対処する。少なくとも、彼にとっては至極当然のことだ。負い目はあるが、かといって引く理由もない。
 しかし、缶コーヒーを手にしている司にとっては、それは奇異に映ったようで。
「あんたも大概律儀だな。
 何も名前を答えてくれなくたって良かったのに」
「なに?」
 征一郎が聞き返すと、司は首を軽く振って、
「……いや、いい。
 だいたい、俺がここで寝ていたことを、あんたが見ていたようには思えないが」
「どういう意味だ?」
「俺はここに居るが、寝ていたかどうかまでは分からないだろうってことさ。
 事情だって話してない。昨日の体育の授業の忘れ物を取りに来た、って理由も充分あり得ると思うが」
「ふむ」
 詭弁だが反論の余地はない。征一郎が寝ていたことを司は見ているが、その逆はないのだ。
 だから征一郎はゆっくりと立ち上がって。
「なら俺だけ自己申告に行くとしよう。
 安心しろ。お前の言が本当かどうかを確かめなければならないほど、俺は暇ではない」
 トラック競技の用具を寝起きの常人では不可能なくらいに俊敏な動作で飛び越え、征一郎はさっさと体育倉庫の出口へと向かった。
 些細な油断から起きた事故。小さな傷口だと甘く見ていると、思わぬ二次被害に遭う。それでも万全は期したのだが、と征一郎は思いつつ、バスケットボールの入ったカゴや得点板を避けて倉庫を後にしようとする。無論、直行する先は職員室だ。
 その背後に、声がかけられて。
「俺が取引の材料にするとでも?」
「そうは思っていない。
 それでも自らの違反を生徒に指摘された以上、その責任は負わねばなるまい」
「……さすが、孝平が尊敬してるだけはある」
 呆れたような声音と、含まれた意外な名前。征一郎にとっては嘲笑にも聞こえたが、しかしだからといって動じることでもない。その性格の堅さは、指摘され慣れている。
 無視して更に歩を進めると、更に声がかけられた。
「東儀先輩、だったか。コレでも飲んで、目を覚ました方が良い」
「……!」
 確認できぬ速度で投げられた何か。反射的に征一郎は受け取った。ぱしん、と乾いた音。重みのある円筒形の物体。傾かせると重心が変わるそれを、かすかに入る日光にかざして。金属特有の反射光が目に痛い。
「何のつもりだ?」
「別に。目を覚ました方が良いと思ったからだ。
 あ、賄賂のつもりじゃないからその辺は安心してくれていい」
「しかし――」
「時計、あるなら見た方がいいっすよ」
 その口調の変化に気付かぬまま、征一郎は疑問に思いつつも腕時計に目を凝らして時刻を確認する。暗い中、うっすらと動く針の示している時刻は、午後四時すぎ。正味五時間ほど眠っていたことになるのか、と征一郎はここで初めて時間を知った。
 征一郎が立ち止まっている間に、司は先に倉庫の出口へと赴いていて。
「つまり、放課後ってことになるわけで」
「ああ、そうだな。それが?」
「放課後に体育倉庫で眠っていたからって、誰に咎める権利があるんすかね?」
 言って、司はにっと笑みを見せた後、倉庫の扉を開けてそのまま外へと歩き去っていった。
「……」
 しばし、呆ける。
 歩き去る司の背中が逆光で見えなくなった頃、右手に残った未開封の缶コーヒーに視線を落として、征一郎は全てを悟ったがゆえの溜息を吐いて。
「……さすが、支倉が深い付き合いをしているだけのことはある」
 顔が笑っていることを自覚しながら、征一郎は近くの跳び箱の上に腰を降ろす。缶を開けて、まだ温かいそれをゆっくりと口内へ流し込み。当然のように味は感じられない。それでも少し苦みがあると思ったことに、彼はわずかに苦笑して。
 歩き飲みは許されない。飲み干したら、その空き缶を手に監督生室へと行こう。そう思いながら、彼はそのまましばらく体育倉庫でゆっくりしていたのだった。


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