ぜんじつだん。
[Fortune Arterial short story]
「……ケーキが作りたい?」
監督生室。
唐突に吐かれたその言葉を、今まで書類と格闘していた俺の頭が理解するには数秒の時間が必要だった。
ケーキが、作りたい。
うん、日本語としての意味は確かに分かる。
あの洋菓子を作りたい、ということだ。分かる。確かに分かる。が。
「えっと……誰が、ですか?」
「誰って、あたしがに決まっておろう。他人の頼みを代弁しているように見えるか?」
「いや、まあ、その」
ふん、と「何を言っているのだこいつは」といった感じで俺を見てくるその赤い瞳の持ち主は、しばしばこの監督生室に出入りしている伽耶さんその人だ。かつてのように派手な頭飾りや彩り鮮やかな羽織は着ていないものの、和服姿という点は変わらない。下駄も扇も健在だ。
その伽耶さんが、なんでまたケーキなんか?
「どうしてそこで不思議そうな顔をする。今では生誕日を祝うのにあのケーキとやらを用いるのだろう?」
「へ? 誕生日用って……ああ、つまり」
「そうだ。瑛里華のやつに振る舞ってやろうと思ってな」
伽耶さんがいきなり「ケーキが作りたい」なんて言うから混乱してしまったものの、よくよく考えれば、そうだ、この時期でケーキと言えばそれしかない。
――六月七日は、瑛里華の誕生日。
その誕生日にケーキを送ろうという考えらしい。
それは理解できる。実際、瑛里華は甘いものに目がないわけで、さぞ喜ぶことだろう。
しかし。
「けど、伽耶さん。えっと……ケーキってたぶん、難しいですよ? 普通は作りませんし」
「何を言う。嗜好品の一つや二つ作れずして何が母親か」
「いやいや」
その前に料理を一丁前に作れるようになってください、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
以前見に行ったことがある。千堂家。ときたま伽耶さんが料理をしようと意気込むことがあると瑛里華に聞かされていた俺はその腕前を確認しに行ったのだが、うん、確かにそこにあったのは母娘が仲睦まじく料理をしているかのような光景だった。無論、瑛里華が教える母親側で伽耶さんが教わる娘側である。
伽耶さんもそれを自覚しているようで、しかし瑛里華に料理を(曰く「母らしく」)作ってやろうとやる気だけはあるものだから、勝手にやって勝手に失敗して危なっかしいったらありゃしなかった。俺が見ている間だけで何度包丁で指を切りそうになったことか。
そんな伽耶さんの様子を知っているからこそ、ケーキは流石に無理じゃないのかと思えてしまう。
……というか一人じゃ無理だろう、どう考えても。
「でもなあ、ケーキはちょっとなあ……」
ちらりと視線を監督生室内に巡らせる。俺の他は、今日は紅瀬さんがぱちぱちとパソコンのキーを叩いているだけだ。
俺にケーキ作りなど手伝えようはずもない。紅瀬さんは料理は得意なものの、洋菓子は流石に無理だろう。白ちゃんも和菓子専門みたいなことを以前言っていたし、瑛里華に教わったのでは贈り物としては本末転倒だ。
「ケーキじゃなきゃダメですかね?」
「去年あたしに送られたのがそれなのだ、返す方もそうでなければ礼になるまい?」
「あー」
そう言われるとなんともはや。
理由にそれを出されると、やはりどうやっても作らせてあげたくなるものの、しかし俺とてそんなものに経験はない。それでも伽耶さんよりは器用だしやってみればできるかな、なんて失礼なことを考え始めた頃、カタン、とエンターキー特有の強い音が響いてきて。
「悠木さんに手伝ってもらったらどうかしら?」
話が聞こえていたか、紅瀬さんがこっちに振り返りつつそう言った。
「陽菜か。まあ、陽菜ならできそうだよな……」
「悠木……は覚えたが、ううむ? 陽菜? 瑛里華が記憶を消してた方か?」
「あってますけど、その覚え方はどうかと」
「む……では、大きい方か?」
「……」
もはや何も言うまい。
しかしまあ、確かに陽菜を頼るというのは名案だろう。瑛里華の誕生日のためと言えばおそらく喜んで手伝ってくれるに違いない。お菓子作りもしていることから、少なくともここに居る面子よりはずっとケーキについて詳しかろう。もしかしたら瑛里華の好みとかもよく分かっているかもしれない。
「ふむ、ではそのやかましくない方の悠木に話をしてみるか」
「んじゃ、携帯で連絡取ってみます。伽耶さん、陽菜になら手伝ってもらってもいいですよね?」
「構わん。瑛里華の友人でもあるからな、丁度よかろう」
陽菜も伽耶さんには会っているし、問題はないだろう。
そうして俺は、携帯で陽菜に事情を説明することにしたのだった。
○ ○ ○
時は数日後、六月六日。つまりは瑛里華の誕生日、その前日。
一番のネックは調理する場所や器具だったのだが、それはあっさりと解決された。
というのも、陽菜に聞けばどうやら家庭科室を借りることができたようなのだ。流石に不思議に思いつつも、伽耶さんとともにその家庭科室に向かった俺はその不可思議な現象もあっさり理解することになる。
理由は簡単。家庭科室の扉を開け、開口一番聞こえてきたのは。
「あ、こーへー!」
聞き慣れた、しかし最近は聞かずにいた元気の良い声の主はもはや言うまでもないだろう、かなでさんだった。
家庭科室の奥の方では陽菜が困ったような顔をしつつ優しく微笑んでいる。まあ、話をしたら来ちゃった、という感じか。
そんな陽菜の様子を知ってか知らずか、ぴょんぴょんと飛跳ねるように家庭科室の椅子の隙間を縫って、かなでさんが駆け寄ってくる。服装は寮長のときとまったく一緒の格好だ。
「かなでさんがここ借りたんですか?」
「そりゃもう、えりりんのためとあらば家庭科室の一つや二つ、この悠木かなでにかかればちょろいちょろい!」
えっへん、と胸を張る。
そりゃすごい。
家庭科室は一つしかないというのは、この際置いておこう。
「いやー、久しぶりだけどいいね、ここは! ひなちゃんにも会えたし!」
相変わらず高いテンションのままのかなでさん、くるくるっと手を広げて嬉しそうに大回転。
俺が久しぶりのことでちょっと呆けていると、からん、と伽耶さんが一歩前に出た。
「久しいな、ええと……うむ、悠木とやら」
「あ! お久しぶりです、えりりんのお母さん! えりりんとこーへーは元気でやってます?」
「そうだな、親に迷惑をかけない程度には、よくやっているようだ。こやつはちと頼りないが」
そこで伽耶さんはちらっと俺に視線を向ける。気付いたか、かなでさんも意味ありげな視線を送ってきて。
「いやー、でもこーへーはやればできる子ですから、よろしくお願いしますね」
「瑛里華のやつが愛想を尽かさないように祈るとしようか」
そうしてかなでさんは穏やかに、伽耶さんはどこか含むように、しかし二人とも俺を見ながら笑い出した。
なんだこの、保護者同士の会話に交じった小学生みたいな感覚は。どっちも俺の母親じゃないんだけどなあとか思いつつも、まあこの二人ならいいかなとも思ってしまう。いや、笑われるのは勘弁してほしいけれど。
「それじゃ、あの、千堂さんのお母さん。材料の準備はしたので、こちらに」
「おお、そうか。悪いな、何から何まで」
「いえ、千堂さんにはお世話になってますから」
そうして、からころと下駄を鳴らし、伽耶さんは陽菜が待つ調理台の方へと歩いていく。既にボウルやらホイッパーやら生クリームやらが色々と台の上に乗っており、よく分からないがかなり本格的にやろうとしているであろうことは見て取れた。バレンタインに送るような、ちっちゃいお菓子みたいなものを作るのだと思っていたのだが、この分だといわゆるショートケーキをホールで作りかねない。
「それで、まずはどうするんだ?」
「まずは、と。ええと……あ、これどうぞ」
「うむ?」
「それでですね――」
ちょっと高い調理台、伽耶さんにさりげなく踏み台を薦めつつ(陽菜のこのさりげない気遣いっぷりは驚嘆に値する)レシピ本を指し示して作業の流れを説明し始めた陽菜。レシピ本がそのままでは見えなかったのだろう、伽耶さんはちょっとだけ躊躇ったあとひょいっと踏み台に飛び乗って、何ごともなかったように陽菜の話を聞き始めた。
隣に居るのが俺や紅瀬さんだったら、文句の三つ四つは来て当然の場面だろう。やはり陽菜を選んで正解だったと思える。
「それじゃこーへー、わたしたちはクッキーでも焼こうか。ケーキだけじゃ寂しいでしょ?」
そうしてしばらく二人を眺めていると、今度はかなでさんが学校指定のエプロンをつけつつそんなことを言ってきて。
「いや、でも俺、作れませんよ?」
「いいのいいの。うまくできなくたって、えりりんはこーへーが作った物なら喜んでくれるから。それに折角家庭科室に居るのに、何もしないでいるのもつまらないでしょ」
「そりゃまあ、そうですけど」
「あのケーキは、やっぱりえりりんのお母さんが作るべきだしね」
笑いつつ、俺の返事も聞かずにちゃっちゃと手近な調理台にテキトーな器具をわんさか集め始めるかなでさん。
「……」
しかし、ケーキは伽耶さん自身が作るべきだというその言葉。
どこまで聞いたかは知らないが、やはり陽菜に劣らずこの人もよく周りのことを考えていると改めて思う。そもそもただ瑛里華の誕生日を祝うだけであれば、わざわざ家庭科室を借り切るなんて無理をしてくれはしなかったろう。……いやまあ、そうであってもかなでさんならやりかねないと思ってしまうあたり、説得力は薄いのだけども。
「ほら、こーへー!」
「あ、はい、今行きます」
「いくら何でも、せめて炭にだけはしないようにしないとね」
そのレベルかよ。
そんな俺のツッコミを知る由もなく、かなでさんは「ふんふふーん」「るんららーん」「たらりらったらーん」なんて鼻歌を歌いながら、クッキーの生地をこね始めたのだった。
○ ○ ○
日も暮れ、既に夜の帳も降り始めた頃、そうして最後の料理が完成して冷蔵庫へと仕舞われた。
家庭科室の冷蔵庫には色とりどりの料理や飲み物が既に準備されていて、その中央には綺麗な形をしたショートケーキが入っている。大きなそれは、まるで明日のお披露目を待つかのようにどっしりと構えているかのよう。見た目はともかく、味やなんかは陽菜の手伝いがあったのだから心配する必要はあるまい。
「しかし、よくこれだけ集められたな? この短期間で」
小さくない冷蔵庫が満載になるほどの量だ。しかも今日は金曜日。どうやってここまで集めたのかと聞いてみれば、陽菜が優しく笑って答えを返してくれた。
「ふふ、実はね孝平くん。元々私たち、千堂さんのお誕生日はお祝いしてあげようと思ってたの」
「あれ、そうなのか?」
「うん。みんな、もっとずっと前からね。そこに孝平くんたちから連絡があって、それじゃ私たちは裏方に回ろうって話になって」
「ありゃ、そうだったのか」
それだけ瑛里華がみんなに好かれているというのは、悪い気分ではない。
となると俺は出遅れたのかなあ、などと思っていると、案の定、俺の頭にこてっと閉じた扇が乗せられて。
「そうだったのか、ではない。お前、人から言われて気付くようでは、その程度が知れるぞ? のう?」
「勘弁してくださいよ、一応はこうして間に合ったんですから」
「とんだ突貫工事だったがな」
ふ、と笑う伽耶さんのその表情は少しばかり満足げだ。なんだかんだでケーキを作った自負というのがあるのだろう。あるいはまた、他の食べ物やその祝い事それ自体を楽しみにしているというのもあるに違いない。
――そう。全ては明日の、瑛里華の誕生日のために。
「明日はきっと祝福ムード一色になるんじゃないかな、千堂さんのための」
「いやー、えりりんも喜んでくれるだろうし、よきかなよきかな」
姉妹揃って、まるで自分のことのようにその祝い事を嬉しがる二人。
俺もそう思う。
奇しくも明日は休日。きっと各地で、様々な時間軸における「6月7日」の瑛里華の誕生日が祝われることだろう。
そこに伽耶さんは居ないかも知れない。瑛里華がまだ副会長かもしれない。ケーキもないかもしれないし、あるいは俺が人間でなくなっているかもしれない。
けど、そのどれであっても、瑛里華の誕生日は祝福されるに違いない。誕生日とは誰もが持つ、そしてそれが誰であれ祝われるべき日なのだから。人気者である瑛里華のそれであれば尚更だ。色んな人が祝ってくれることに俺は疑いを覚えない。
「それじゃ伽耶さん、そろそろ」
「うむ。明日を楽しみに待つとするしようか」
汚れに汚れたエプロンを外して、伽耶さんが冷蔵庫から離れる。
「世話になった。感謝するぞ」
「いえ、私たちもお手伝いさせていただいて……それと、本番は明日ですから」
「それもそうだな」
扇を広げ、愉快げに笑う伽耶さん。そうしてそのまま、からころと家庭科室から退室していく。
後ろ姿、なんとなく足取りが軽いように見えるのはきっと気のせいではないだろう。
続いて俺が、冷蔵庫の温度を確認した後そこから離れて。
「それじゃまた明日な、陽菜。今日は助かったよ」
「ううん。千堂さんが喜んでくれるなら、これくらいは」
「かなでさんも、家庭科室の件、ありがとうございました」
「なんのなんの」
そんな返事をもらったのち、俺もまた伽耶さんを追うように家庭科室を後にした。
外は既に暗く、どことなく静謐な雰囲気が漂っている。しかし、明日の夜はきっと今の比にならないほど賑やかな声が聞こえてくるはずだ。それが俺には楽しみで仕方がない。
冷蔵庫に仕舞われた、明日目にすることになるであろう様々な料理に思いを馳せながら、そうして俺は寮へと帰っていったのだった。
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