21回目の

[Fortune Arterial short story]
 人間というのは、外部によって規定される。
 ……と書くと少しは格好もつくのだろうが、つまりは環境によって人間は如何ようにも変化するということだ。かの有名なスタンフォード監獄実験の例は極端すぎるにしても、例えば、地元中学では秀才扱いだった子が有名進学高に入ると途端に凡人になってしまったりする。それは成績順位というものだけではなく、素振りや考え方までが。なぜなら、自分がその集団の中で秀才ではなく、であるがゆえに秀才である必要がないからである。守備位置が、あるいはポジションがかぶっているのだ。野球をするのにキャッチャーは二人要らないし、サッカーをするのにゴールキーパーは二人も要らない。
 そういった意味で言えば、俺は超スーパーユーティリティプレーヤーだという自負がある。定番のいじめられっ子にもなったことは勿論あるし、とある田舎ではガキ大将並に幅を利かせていたこともあるし、お金持ち進学校ではスポーツ好きなアウトロー的ポジションだったこともあるし、貧乏街の公立校ではガリ勉を凌ぐ優等生として扱われたこともあった。
 当然と言えば、当然だ。二十回も転校を繰り返していれば、誰だってこうもなる。
 それはあるいはまた、転校を繰り返すという条件によってできあがる人間像でもあって。その意味でも俺は、やはり外部から決められていた。

 でもこの二十一回目の転校で起こった出来事は、流石に経験したことがなく。

「こーへー!
 起きた! へーじ、こーへーが起きたよ!」

 目蓋を開けた途端響いてきたのは、まるで待ち望んでいた願い事が叶った子どものように嬉しそうなきんきん声。同時にぎゅっと手を握られる。力はそう強くないが、俺が再び寝入らないようにしているという意図は感じられた。
 身体はだるいが、そのだるさはむしろ動かなかったせいだろう。どことなくむずがゆい身体全体を少しだけ起こし、俺も再びまどろみに落ちないように大きく息を吸う。ぐん、と寝起きの世界が近づいてきた。

「どうだ、孝平。調子は?
 まあ丸一日眠ってたんだ、良いわけはないだろうが」

 二つ目の声。見ればここは個室で、壁も天井も何もかもが真っ白だった。俺が寝ているベッドは見たことのないもので、間違いなく『病室』と呼べるここに居るのは俺を含めた三人だけ。時計を見れば時刻はだいたい昼をちょっと過ぎたという辺りだ。カレンダーは四月を示している。

「……?」

 疑問が重なる。
 目の前では、くりくりっとした丸い瞳が不思議そうに、かつ心配そうに俺を見ていて。
 少し離れた場所からは、バイト行くついでに見舞いに立ち寄ったみたいな態度が様子を窺うようにやっぱり俺を観察していて。
 俺は、どうして俺が入院なんぞしているのか、ということと、それよりなによりまず――

「えっと……誰、ですか?」

 俺以外の二つの視線は、困ったように顔を見合わせた。



       ○  ○  ○



 記憶喪失。
 そう告げられたとき、俺はあまり困惑はしなかった。それどころかむしろ、俺にぴったりじゃないか、と頭の片隅で自嘲したくらい。

 ユーティリティプレーヤーにとって、自分というのはそう重要じゃあない。理由は、周りに合わせるように自在にカタチを変えるからだ。もし社会がパズルで、人間がパズルのピースなんだとしたら、俺は特注と言っていいくらいに珍しいピースといえる。どんな形のピースにだってなれる自信があるからだ。実際、今までそうやって生きてきた。強烈な性格なんていうのは一つのパズル面にずっと居着ける人の話であって、俺みたいに十も二十もパズルを転々とさせられる身においては、一つの形を留めておくことなどデメリットしかありえない。
 だから、俺にふさわしいと思った。記憶喪失。あいにく忘れているのはここ最近のことだけらしいが、それにしたってその空白が俺を縛ることはありえない。好都合だ。無色透明なことほど、適応にふさわしいものなんてないのだから。
 そしてまた、俺は慣れている。記憶を喪失したところで、またいつものように周りとの関係を探っていけばいいだけなのだ。二十一回目なんだから、そう気負うこともない。いつものようにしゃべってみてから相手を判断して、その社会が必要な形に自己を変えていく。ほら、そこに自分の過去なんてこれっぽっちも必要ありはしないだろう?

 現にこうして目覚めた翌日でさえ、俺は、

「なあ司。おすすめって、なんかある?」
「ん?
 ――……ああ、大盛屋台風焼きそば紅ショウガ抜き、なんてどうだ?」
「んじゃそれにするか」

 こうして円滑にコミュニケーションが取れている。

 きっと記憶を失う前の俺も同じ事をしていたことだろう。特にこの司とは出会ってすぐだったせいか打ち解け”直す”のも早く、さっきなんかは「意識してないと、俺、お前が記憶喪失だっていうの忘れるかもな」なんてことを言っていた。
 でもそれもやはり当然だ。俺は相手によって自分を変えるのだから、相手が同じなら俺も同じ性格になる。試したことはなかったが、この記憶喪失という特殊状態がそれを証明して見せてくれた。

「席、取っておくわ」
「おう」

 見慣れない学食の注文口。俺は言われたとおり大盛屋台風焼きそば紅ショウガ抜きを頼んで、しばらく待ったあとそれを受け取り、生徒証をレジに通して司の後を追う。そう混雑しているわけでもなく、またその目立つ格好ゆえ、司が座っている場所はすぐに見つかった。対面に腰を降ろす。

「ああ、分かったか」
「ん? そりゃあね。お前が黒髪でびしっと制服着てりゃ分からなかったかもしれないけど」
「そうじゃないんだが……まあいいか、分かったなら。
 さっさと食おうぜ」

 そう言って司はエビチリカレーをスプーンで掬い、口へと放り込んだ。



       ○  ○  ○



 目覚めたとき「こーへー! こーへー!」と叫んでいた女の子は、かなでさんだったらしい。覚えている。七年前、俺がこの辺りに住んでいた頃の知り合いだ。陽菜とも会ったし、この二人に関してはもう記憶喪失なんてあってないが如しだろう。七年前の知り合い、その再会をもう一度やり直すだけだ。それこそ大したことじゃあない。
 ちなみにどうやら俺は記憶喪失中にかなでさんからもらった地図を頼りに学院内探検をしたらしく、もう一度それをやってみようか考えている旨を話したところ、「ああ、あれはもうバッチリ使ったから! ナイスショットだったよこーへー! というわけでもう一回行く必要はないよ」などと言われてしまった。意味がよく分からない。

 それでも一通り寮内は案内してもらって、夕飯を食べ終え別れたのがついさっき。バイトの帰りであろう司がちょうど部屋に戻ってきたので、風呂へ誘うと了承の返事が。というわけで男二人で風呂へ向かう途中なのだが。

「風呂といえば、お前、多少注目されるかもよ?
 特に廊下歩いてる女子に」

 着替えとバスグッズの入った袋を振り回しながら、司が突然妙なことを言いだした。

「何かやらかしたのか、俺?」
「やらかしたなんてもんじゃない。原因は会長にしろ、お前は神だね。一部では」
「はあ……?
 記憶がないからって、適当なこと言ってないよな?」
「まさか。
 むしろ当人と会ったときのためにも、知っておいた方がいいと思うけどね。風呂上がったら教えてやるよ」
「うーん……」

 少しだけにやにや顔の司。その表情や言動を見るに、どうやら俺が女湯を覗いたとか、そんなようなことをしたのだと言いたいようなのだが。いくら相手に合わせるとはいえ、流石に限度ってものが俺にだってある。そんなことをしているとは思いづらい。
 結局聞いてもはぐらかされ続けて、足は既に大浴場の手前。女湯と男湯の別れ口。

「あれ」
「どうかしたのか?」

 俺が男湯ののれんをくぐろうとしたとき、司が何かに気付いたようにふと声をあげた。
 何かマズっただろうか?

「孝平。ちょっと待て。あと音を立てずに戻れ、今すぐだ」
「……?」

 どことなく切羽詰まったその声に疑問を感じつつも、俺は足を止めている司の元へとゆっくり戻る。まるで赤外線センサーを見つけたスパイのような感覚だ。
 そして司の隣に立って、眺めてみる。特に変なところは……あれ?

「さっきかなでさんに案内されたときは、逆だった気がするんだけど。
 ここ、時間制?」
「一つを共用するならともかく、二カ所を入れ替える時間制に意味はないだろ。
 ……そうか、あのときもお前、こうやって……」

 司が何か知った風にぶつくさと呟く。俺にはやはりよく意味が分からない。
 俺が問おうとすると、司は一歩後ろに下がって、

「待つか」

 とだけ呟いた。

 俺の首はなおも傾いていく。司は「まあ見てろって」とだけ言って、廊下の壁に背中を預けた。仕方ないので俺もそれに倣う。現地人の真似をするのは、転校生の必須スキルだ。
 そうしてしばらく後、そろそろ入ろうかと司に切り出そうとしたその瞬間、男湯ののれんをくぐって現われたのは、

「あら。突入だけじゃ飽きたらず、今度は張り込み?」
「おい、紅瀬」
「冗談よ。でも、疑われるのも無理はないと思うけど」
「それがさ、見ろよ」

 出てきた紅瀬さんと、司が会話を交わす。しばらく「なんで私が」「男がやるわけにはいかないだろ」などと議論した後、紅瀬さんが渋々とのれんを入れ替えた。つまりはそういうことだったらしい。
 小学生のころならともかく、この歳でこのいたずらは犯罪じゃないのかと思うのだが。

「それじゃ孝平、入るぞ」

 正常に戻されたのれんの、男湯の方へと司が入っていく。すぐさま俺はその背を追おうとして、少し踏みとどまり、振り向いて。

「ありがと、紅瀬さん」

 声をかけた相手は、少しばかり驚きの表情を見せた後、

「恨まれこそすれ、感謝されるとは思わなかったわ」
「……?」
「冗談。気にしないで」

 言って、微かに笑う。
 そのまま踵を返し綺麗な黒髪を靡かせ去っていく紅瀬さんを見送って、今度こそ俺は本物の男湯ののれんをくぐった。



       ○  ○  ○



「なんだこのざわめきは」
「珍しい人が来たからだろ」

 浴槽に浸かっていると、急に他の人たちがざわつき始めた。俺の問いに答えた司も、すすすとなぜか離れていく。風呂場の視線は八割方が入り口方向で、残りの二割はなぜか俺。なんだなんだ、一体?

 疑問に思っていると、入り口方向から声が二つほど聞こえてきて。

「懐かしきかな大浴場。
 前に来たのはいつだったかな?」
「二週間前だ」

 見ると、生徒会の二人が入ってきたところだった。それだけでガラッと場の空気が変わっていく。
 まあ、俺には関係のない話――と割り切ろうとして、なんとなーく関係がある気配を感じた。

 見る。向こうも俺を見ていた。目があった。
 気分は授業中、誰をあてようか迷っている教師とたまたま波長があってしまったときのそれだ。泣ける。

 そうして予想通り二人は俺の両隣へ。逃げようとしたことを悟られたか、肩まで掴まれてしまった。渋々浴槽へ浸かり直す。

「一般生徒くん、隣いいかな?」
「いいも悪いも、既に入っていながら何を」
「これは失敬」

 一人はそう言いつつ、もう一人はほぼ無言のまま俺の両脇を陣取った。挟み将棋でもオセロでも、俺は相手に食われる場面。助けを求めるも、無情な裏切り者は我関せずの態度で身体を洗い始めていた。ちくしょう。
 仕方ないので縮こまる。満員電車で偶然座席に座れたけど肩が押し合いすぎて困ったときのように。これでも都会慣れしているのだ。

「というわけで世間話をしよう、一般生徒くん。
 最近どうだい?」

 馴れ馴れしくしてくる人には、二種類居る。人付き合いが得意なやつと、単なるバカ。後者は御しやすい。しかし今目の前に居る人は、前者の、しかもとびっきりの強敵だ。
 でもセオリーはセオリー。こういうときは無難な話題に終始するに限る。なぜなら、ここで「実は記憶喪失で……」などと言って話を盛り上げたところで、俺にメリットは何もないから。そういうのは飲み会の席でやればいい。これも数多の転校で学んだことだ。

「ぼちぼちです」
「ちょっと前は?」
「……ぼちぼちです」
「ごく最近はどうだった?」
「ぼちぼちです」
「惜しいなあ、せっかく僕からの心ばかりの謝罪の意だったのに。
 自分の生きてきた道に責任の持てない根性無しでも、うちの学院の生徒である以上、ないがしろにはできないからね」
「……」

 意味は分からないけれど。
 笑顔の仮面の下から覗いた本音が、なぜか俺の心を深く突き刺した。

「伊織」
「ああ、分かってる。そう睨むなって、征。
 それじゃあ、また縁があれば会うこともあるだろう。それまでお別れだ、一般生徒@支倉君」
「一体何しに来たんですか、会長……」

 東儀先輩に促され、二人は俺の返事を聞く気もなく、用事は済んだとばかりにさっさと浴場を――と思ったのだが、会長は少しだけ驚いたような表情を見せて動きを止めた。何か地雷踏んだかな、と思うのも束の間、一度振り返り意味ありげな視線を送ってきた後、今度こそ何ごともなかったかのように出て行った。
 それとともに数多の視線が俺の方から離れていき、入れ替わるようにして司が戻ってくる。裏切り者め。

「何話してたんだ?」
「俺が聞きたいくらいだよ」
「はあ……?」

 司が奇妙なものを見る目つきになる。
 けど、仕方ない。会長に「最近どうだい?」などと言われただけの話を、他人にどう説明しろというのか。

 俺は司とその他観客達の好奇の目に晒されつつも、気にせず浴槽に浸かり続けたのだった。



       ○  ○  ○



 記憶喪失については、あまり公にしているわけではない。
 幸いここに来てからの『知り合い』と呼べる連中は司とかなでさん、陽菜くらいだったようで、この三人と先生以外には「疲労性の体調不良」ということで手を打ってある、らしい。無断で欠席にしておくわけにもいかないからだ。
 また体調不良自体は実際に原因の一つと考えられているようで、事実俺は記憶を失う前日、ずーっと部屋でぶっ倒れていたらしい。もちろん俺にその記憶はないが、呼びかけに応じられないほどだったそうで、陽菜あたりはそれが前兆だったと思っている節がある。

 さてそういうわけで、ここで日付を整理しよう。十五日(火)に俺が倒れているのが発見されていて、目が覚めたのが十六日。寮に戻ったのが十七日で、当然この日は授業には出ていない。となると今日、十八日(金)が終われば土日のため、とりあえず俺は今日は授業には出席しないことにした。司あたりに「サボりだな、サボり」などと茶化されたものの、「お前はいつもサボってるだろ」という言葉は喉で止めておく。心配してくれているのが分かったからだ。

 そういうわけで俺は他の生徒とは少しばかり時間をずらし、まだ授業中のその時間帯に学食で昼食を取っていたのだが。

「突然ですが、千堂伊織の時間です」
「ぶ――――っ!?」

 思わず麦茶を吹きそうになる。

 わずかばかり居る学食の客も(おそらく大半は教職員だろう)声こそ出さないものの驚いているようだった。そりゃそうだ、学食に聞こえているということは、校内放送を使っているのである。しかも授業中に。普通に考えてありえない。

 そしてまた、普通に考えてありえないことをやっちゃうのがあの会長なわけなのだけれど。

「貴重な勉学の時間に申し訳ないが、すぐ終わるので我慢して欲しい。
 ……さて、わざわざ全校放送を使ったのは他でもない。5年3組の支倉孝平くん、君だ」

 俺かよ!

「君に伝えたいことがある。
 今すぐに、今すぐにだよ、僕のところに来てください。一人で。
 待ってるからね〜♪」

 そうして「では、生徒諸君、および先生方、引き続き楽しい授業の時間を」などという言葉で締められ、放送は終了した。どことなく浮ついた空気の、それでいて放送のために静まりかえっていた空気が一転、再び喧噪へと戻っていく。こういうことは日常茶飯事……とまではいかないだろうが、まあ、「会長だし」の一言でオールオッケーということなのだろう。

 だから俺も「まあ会長だし」で自らの憩いの時間へと戻りたいのだが、そうは問屋がなんとやら。俺は無関係で善良で第三者的一般生徒ではなく、善良なのは間違いないにしろ呼び出された当事者なのだ。
 無視してやろうか、という考えも一瞬脳裏を掠めたものの、気になることは気になる。ちょうどというかなんというか、目の前の焼きそばの皿はほぼ完食されていたし、どうして授業中に”今すぐ”なんてことを言ったのかという疑問もある。俺が授業を免除されていることを知っていたのか、あるいは授業中だろうがなんだろうが問答無用で呼びつけたのか。後者も充分ありえるから、なおさらよく分からない。

「……仕方ない、行くか」

 気が乗らないが、かといって拒む理由もない。溜息混じりに吐き出された俺の独り言は、まるで自分に言い聞かせているかのようでもあった。コップの水を飲み干し、立ち上がる。

 ……少しだけ足がすくんだ気がしたが、おそらくずっと座っていたせいだろう。



       ○  ○  ○



 今すぐに、というからには今すぐ行かなくてはならない。
 というわけで俺はさっさと食器を返し、食堂を出、割合急いで監督生室へと向かった。幸い食堂棟は監督生棟へと続く坂のすぐ近くに立っており、上り坂という要因はあるにせよ、その移動にそう時間はかからない。授業中であろう校舎を横切る必要がないのも運が良かった。

 そうして昼休みでも放課後でもないため誰もいない礼拝堂を横目に、監督生棟へと着いたのだが。

「……あれ?」

 階段を昇り終えると、扉の前には先客が居た。
 それが俺を迎えるために待っていたのではないことは、その人物の向きで分かる。彼はこちらを向いているわけではなく、扉を片手で押しつつ向こうを向いていたからだ。様子を見るに、鍵が閉まっているらしい。

 なぜか息苦しくなったため深呼吸を一つすませ、ゆっくりと近づく。足音で分かったが、その人物は振り向いて。

「来たか」

 いつも通り感情を表に出さず、東儀先輩はそう言った。

「鍵、閉まってるんですか?」
「ああ。俺が、いや、俺たちがどれだけ急いだところで、あいつより先にここに来るのは不可能だからな。
 おそらく今頃は君を巡っての兄妹喧嘩の最中だろう」
「……?
 まあともかく、東儀先輩は鍵をもってないんですよね? ノックしても聞こえないでしょうし……」

 二階の窓を見上げる。
 これだけ大きな、屋敷とでも呼べる建物だ。軽いノック程度で中にいる人間が気付くかどうかは怪しいところ。叫んだ方がいいだろうか、などと思案を巡らせる。
 しかし、東儀先輩は首を振りつつ、ポケットに手を突っ込み、それを出して見せた。

「鍵なら俺のがある」

 あるのかよ!

「……が、これを使うかどうかは君が決めろ、支倉」

 そう言って、ぽんとその銀色の鍵を俺に向かって放り投げた。手を出すと、すとん、と俺の胸元に丁度良く着地する。東儀先輩らしい、何の装飾品もつけていない鍵。しかしそれでも鍵自体が高価なものなのか、どことなく気品が漂っているようにも見える。

 とはいえ鍵は鍵だ。用途は閉まっている扉を開けること。東儀先輩の言に首を捻りつつも、まあこの人も結構変わり者だしなあ、と思い直して鍵を鍵穴へと突っ込む。捻ろうとしたそのとき、先輩は声を掛けてきて。

「支倉。開ける前にいくつか質問がある。いいか?」
「え? 中で、ではなくて?
 まあいいですけど」
「どうしてここに来た?」

 大まじめな表情で、随分と変なことを聞く。

「そりゃ会長に呼ばれたからですよ。
 東儀先輩だって、それを聞いたから来たみたいなこと言ってませんでした?」
「……支倉、その放送の内容を思い返してみろ。誰がどこに来いと言っていた?」

 いつもの無表情ながら、どこか切迫感の漂う口調に、俺は素直に従うしかない。思い返してみる。会長の放送。

『突然ですが、千堂伊織の時間です』
『貴重な勉学の時間に申し訳ないが、すぐ終わるので我慢して欲しい。
 ……さて、わざわざ全校放送を使ったのは他でもない。5年3組の支倉孝平くん、君だ』
『君に伝えたいことがある。
 今すぐに、今すぐにだよ、僕のところに来てください。一人で。
 待ってるからね〜♪』
『では、生徒諸君、および先生方、引き続き楽しい授業の時間を』

 何のことはない。

「”会長”が、”ここ”に来るようにって」

 テストで暗記した箇所がそっくりそのまま出たときくらいの確信めいたその回答に、しかし東儀先輩は首を振った。

「違うな。
 ”千堂伊織”が、”千堂伊織のところ”に来るようにと言ったはずだ」
「一緒じゃないですか。それとも会長、ここに居ないんですか?」
「――いい加減気付け、支倉。
 どうして千堂伊織が会長で、あいつがいつもここに居ることを知っている?」
「へ?」

 当然だろう、そんなこと。会長は会長で、会長が監督生室に居ることのどこに不可思議なことがあるというのか。

 けれど東儀先輩はやっぱりいたって大まじめで、俺はしょうがなく何か理由付けをするために頭を回転させていく。東儀先輩とて暇じゃない。言葉遊びをしたいわけではないのだろうが、しかし意味が良く分からない。首を傾げてしまう。

「……そこまで浸透していたとすれば、伊織としても気分は良かろうが。
 伊織がダメなら、聞こう。支倉。俺の名前を、どうして知っている?」
「え、どうしてって――」
「君は記憶喪失になったんだろう?
 どうして俺の名前を知っているのか、と聞いてるんだ。さっき呼んだろう、『東儀先輩』と。それも確認もせず、確信したように。
 なぜだ? そして、いつからだと思っている?」
「え――、あ――」

 射抜く視線に、耐えられず目を逸らす。思考は自己へと埋没し、過去へとぐるぐると逆走して、気付く。
 俺は大浴場で会った時すでに、この人を『東儀先輩』と認識していたことを。

 会長にしてもそう。
 それどころか、実際に呼んでいる。千堂伊織――いや、”大浴場で始めて会った馴れ馴れしい金髪の青年”のことを、”会長”と。

「伊織が君を呼んだのは、昨日君に『会長』と呼ばれたからだ。確かにそれは、あいつの興味を引くのに充分すぎる。俺は気付かなかったのだが、呼ばれたあいつはすぐに気付いたらしい。
 ……考えられる原因は、一つしかないと思わないか?」
「喪失した記憶を、思い出しているってことですか? 俺が」
「違うな。思い出しているわけではない。
 おそらくは忘れなかったのだろう。忘れられなかった、と言う方がいいかもしれないが」
「忘れられなかった……?」

 にわかには信じられない。

 普通は喜ぶべき場面なのだろう。しかし、俺にとってはそうじゃない。
 なぜなら俺は、記憶喪失を”肯定”していたからだ。記憶喪失は都合がいいとまで言い切った。自分が無いなんてことを嘆くことすらなく、俺は再び関係を構築していって。
 少なくとも二週間以上前の俺は、その考え方に納得していた。だから記憶が消えてもショックはないと思っていたし、記憶が消える直前の俺もその意見に賛成してると思っていたのだが。

 忘れられなかった、ということは。
 記憶が消える直前の俺は、その喪失に戸惑ったということになる。

 しかも戸惑うだけでは飽きたらず、こうして今も俺の頭の中にこびりついて離れない。消えようとはしない。そのパズルのピース、形を保てと懸命に訴えてきている。それをしているのが過去の俺? そんな馬鹿な!

「否定しようという行為は、それ自体が否定できないことを物語る。
 ……伊織のやつ、こんなものを持たせてどうする気なのかと思っていたが。試してみる価値はあるようだ」

 東儀先輩が鍵が入っていたのとは違うポケットを漁り始める。

「支倉。大抵記憶喪失というのは、忘れたい記憶を忘れるための脳の防御反応のようなものだと考えられている。
 とすれば、意識的にしろ無意識的にしろ、そこにはある程度自らの自由意志が介入しているということになるだろう。
 では、忘れていた記憶を引きずり出すということは、つまりどういうことになると思う?」
「忘れたい記憶に直面する……ってことですか?」
「ああ。自己の保身のためであれば、思い出さない方がいいことも多々あるだろう。実際、本人が強く望まない場合は『放置する』という選択肢もある」

 そうして東儀先輩は、ポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出し、

「問おう、支倉。
 お前にとって失った記憶は、これを乗り越えてまで欲しがるほどのものなのかどうか」

 『菓子舗さゝき』という文字の刻まれたその包み紙で、俺の中から血塗れの感覚を引きずり出した。



       ○  ○  ○



 肯定するということは、否定するということになる。

 過去を捨てて生きてきた。始まりは忘却の彼方。でも切欠は確かにあって、それはおそらくは大切なものとの別れだったように思う。ずっとずっと子どもだった俺にはとてつもなくどうしようもなくて、どうにもならなくて、どうすることもできなくて、幼い精神を守るために俺は”忘却”を選んだ。
 仕方なかった。自殺という概念すらない幼心を守るには、それしか方法がなかったのだ。それが初めての、自ら選択した忘却だった。

 一度過去を捨てたら、あとは次々に捨てていくだけだった。同じ別れを繰り返したくない、という考えも確かにある。でもそれだけじゃない。言うなれば、意地だったのだ。そして、捨ててしまった過去へのせめてもの償い。
 そうだろう? 一番始めの、一番大事にしたかった記憶を捨てておいて、途中から他のものを捨てないようにするなんてことができるはずがない。ずっとずっと大切な記憶を捨てておいて、大したことのない記憶を保持し続けるなんてことは、始めの記憶に対する侮辱のように思えてしまう。だから大切な記憶ほど捨てなければ生きていけないというその矛盾を克服するために、俺は全てを捨てることを選んだのだ。

 そして、今になって思えば、それをどこかで嫌だと感じていたのだ、俺は。
 だから全寮制のこの学院を選んだ。もう二度と記憶を捨てなくて済むように。そして記憶を捨てないということは、今はもう忘却の彼方にある最初の記憶、それよりもっともっと大事な記憶を刻める体験をしていこうという決意でもあった。だから俺は胸を躍らせて、そして胸を躍らせる決意をして、この島へとやってきたんじゃないか。

 笑ってしまう。結局俺は、過去を捨て続けたという虚勢を張って、ついぞ過去の呪縛から逃れることはできていなかったのだ。『「過去を捨てた」という過去』、という呪縛に。それを『捨てよう』として、失敗して、俺は記憶を再び消した。笑われもする。自分の生きてきた道の責任すら取れない、と。

 でも、きっと悔しかったんだと思う。他でもない、この『俺』が。せっかくの機会、せっかくの体験、それらがまた忘却の渦に飲み込まれてしまうことが。だから自ら記憶の消失を選択しておきながら、『俺』は俺に託した。記憶の欠片。『俺』ができなかったことを、それを使って俺にしろと。
 そう。だから俺に残っていた記憶は、間違いなく記憶を消さざるを得なかった『俺』の慟哭だ。忘れてしまえばなくなる悲しみ。それを残すリスクを負ってなお、俺は忘れたくなかったのだ。

 それはまるで、俺が間違った道を進まないための、真なる幹線を描くための財産。

「おや、征。連れてきたの?」
「ああ。怖さを思い出してなお、失った記憶を取り戻したいそうだ」
「へえ」

 監督生棟に入って、二階。先導した東儀先輩は、折り畳まれた紙をそう言って会長へと手渡した。遅れて俺が階段を昇り終える。
 待っていたのは間違いなく、昨日大浴場で始めて会った馴れ馴れしい金髪の青年だ。

「本気かい、一般生徒@……いや、もういいか。
 支倉君。君はこの紙を見て、何を思いだした?」
「……命の危機を。
 俺の知らない世界、それこそ暴力団とかよりずっと怖い何かが、あっさりと俺を殺せるという恐怖心を思い出しました」
「それなのにここに入って来たの?
 もしかして君、世渡り下手とか言われない?」
「言われません。むしろ上手い方で……上手い方でした。
 けど、上手かったらこうして監督生室に入ってきたりしません」
「だろうね」

 会長は血生臭いその包装紙をテーブルへと投げだし、骨董品を眺めるような目で俺の方へと向き直る。

「例えばの話だ、支倉君。
 罪の自覚がない人間に、罰を与える必要があると思うかい?」
「……?」
「だから、酒でも薬でも何でもいい、自覚のないまま罪を犯した人間に、その罰を背負わせる必要があるかどうかという話さ。
 君とて一度くらい聞いたことはあるだろう? 心神耗弱により刑罰が云々、というアレさ」
「ああ……」

 テレビで耳にしたことは何度かある。犯罪時に善悪の判断能力が消失していて、刑事罰に問えるとか問えないとかっている話だ。
 なぜ今その話を、という疑問は当然だったようで、会長はすぐに言葉を継いだ。

「同様に、僕は記憶喪失の人間の罪を罰しようとは思わない。たとえそれが、故意の喪失――つまりは忘却だったとしてもね。
 だって、意味がないだろう? 馬鹿が死んでも治らないのと同じく、腐った性根は記憶喪失くらいじゃ入れ替わらないだろうからね」
「……」
「だから君が何かが心配でここに来たなら、安心して帰ってくれ、特に憂慮するようなことはない。
 君は、君流に言うなら『新しい』その自分を後生大事にして生きていくと良い。羽化しないセミをつついて遊ぶほど、僕は暇じゃない」

 無意味な脱皮を繰り返していろ、と言外に残して会長は言葉を止めた。東儀先輩は少し離れた位置でじっと会長と、そして俺の様子を窺っている。つまりそれは、会長と同意見ということ。

 でも、俺はそれをしたくないからこうしてここまで来たのだ。
 セミは羽化した直後の柔らかい状態が最も危険と言われている。でも、それをしないと羽化できないというのなら、今の俺はその危険を冒してでもそれをしよう。きっと大丈夫だという確信は、おそらくビビって殻へと戻った『俺』の声。

「それでも、俺は帰りません」

 言うと、会長は表情を変えずに、

「理由を聞こう」
「……知りたいんです、自分を」
「へえ?」

 骨董品に多少の興味を示したらしい。
 気にせず続ける。

「どう考えても、俺は記憶を消されて困るような性格はしていなかった。少なくとも、ほんの二週間前までは。
 でも、きっと四日前の俺はそうじゃなかったと思うんです。最終的には記憶を消す選択をしたにせよ、それを勿体ないと思えるだけの何かを体験していたに違いない。いや、していたはずなんです。でなければ、俺はこうまでそれを悔しいと思ったりしていない。
 だから、それを知りたかった」
「けど、君はそれを放棄することを選んだじゃないか。いつものように捨てることを選んだんだ。
 それに言い訳はきかないよ」
「それは喪失した『俺』の話です。
 責任は問わないんじゃなかったんですか?」

 返すと、会長はぴたっとその動きを止めた後、徐々にぷるぷると震え始めて、クールな態度も耐えきれなくなったか、

「――は、はっはっは、あはは!
 た、確かにそうだね! いやごめん、そうだな、うん、確かにそうだ!」

 よっぽどツボに入ったらしい。腹を抱え、机をばんばんと叩きかねない勢いで笑い出した。
 後方ではこれまた笑う……というよりは感心したような笑みを浮かべている東儀先輩。

「伊織、お前の負けだな」
「はは、いやほんと、参った。これほどとは思わなかった。
 消された自分の記憶もまた、今現在の自分の意志か。どうやら細かいことに拘っていたのは、俺たちの方だったみたいだな」

 一人称を余所行きの「僕」から「俺」に変えて、会長は自らを嘲るように笑う。しかしその表情は晴れやかだ。自嘲しつつ、それでいて楽しげ。東儀先輩も似たような顔をしている。

 つまりは、会長の言ったとおりだ。
 俺がいま、過去の記憶を取り戻したいと思っているその意志。それは紛れもなく俺自身の意志である。たとえそれが、過去の断片により突き動かされたものだとしてもだ。
 なぜなら、もしそれが自分の意志でないとするなら、じゃあそれはどこから来たものになるというのか? 消えた過去の意志? そんなはずがない。消えた意志、だなんて。矛盾している。だからこれは俺の意志で、そうであるからこそ会長は俺を否定できはしないのだ。会長が批難するのは俺の逃走。けど俺は逃走していない。逃走したのは『俺』であり、『俺』は既に消えたのだから。残っているのは、その断片を持った俺だけ。

 だから会長は自分を笑ったのだ。
 過去の『俺』を糾弾して、俺を否定しようとしていた自らのことを。

 でもそれは、もちろん過去の破棄の肯定ではない。俺は過去の『俺』の断片を持って、それでも過去を知ろうとしていた。脱ぎ捨てた辛い記憶、その一端をあの一枚の紙で思い出しながらも、強く過去を求めたのだ。そこにあるのは、過去を捨てる弱さではなく、過去の弱さを超えたいという俺の強い欲求。一度は捨ててしまった、渇望。

 俺は二度と、間違えない。

「確認するまでもないかもしれないけれど。
 記憶を取り戻して、再び逃げだそうとした場合は、今度こそ手荒な真似でその記憶を飛ばすことになる。それでも――」
「会長」
「ん?」
「言ったでしょう、世渡りが下手になったって。
 それが嫌なら、そもそも鍵を開けてここまで入ってきません」
「これは失敬。
 いやしかし、こうまで変わるとは。本当に性根を入れ替えたのか、はたまた元から素質はあったのか。
 ……まあ、あの記憶消去に太刀打ちできた精神だ。おそらく後者かな。なあ、征?」
「さあな。
 しかし必要なのは今の彼がどうあるかだろう? その二択に答えを求めるのは、あまり意味がない気がするが」
「はっはっは、それもそうか!」

 会長はまたも大笑いした後、俺から視線を外して監督生室の奥、給湯室の方へと向いて、

「さてそれじゃあ、来なければいいものを放送を聞いていてもたってもいられなくなってついつい全速力で征より早くここに着いてしまって俺と口論になった挙句自分を呼び出すのも策略のうちだったことを告げられて恥ずかしくてそのまま給湯室に閉じこもりっぱなしの妹を呼ぼうじゃないか」

 ひとしきり馬鹿にしてから、

「おーい、瑛里華! もういいぞ!」

 声をあげて後、一拍置いてその木製のドアが開かれていき。

 すらりと伸びた健康的な両足。ぐっと袖を掴む細い腕。同性すら羨むようなボディライン。腰まである髪は艶やかで、少し恥ずかしげながらも整った顔立ちと勝ち気な瞳。
 それは間違いなく、そして、記憶に違わぬ、
 学院へようこそ、と笑顔で迎えてきてくれたときとはちょっとだけ違う表情ながら、しかし見間違えようはずが無い、
 ――俺がこの生徒会と関わる切欠となった、
 ――数学以外は全科目トップ、
 ――お茶会のメンバーの一人で、
 ――その裸は強烈な印象を与えるくらいに綺麗な、
 ――フレグランスが趣味の、
 ――俺の記憶を消し去る際に泣いていた、
 ――兄と同じく吸血鬼の、
 ――――俺に新生活を予感させてくれた副会長その人だった。

「もう、兄さん。人が口出しできないと思って好き勝手――!
 って、ちょ、ちょっと支倉くん、どうしたの!?」
「え……?」

 恥ずかしげだった副会長の表情が、一転驚きに染まる。何かと思い声をあげれば、あがった声はなぜか嗚咽で。

「う……ぁ……?」

 またもや鼻声。
 視界が霞んで、感情は昂ぶり、俺はさっぱり意味は分からない。

 ……どうして、泣いている?

「こりゃ俺たちの完敗だな。
 さすが、瑛里華が一目惚れしただけのことはある」
「兄さん!
 ……でも、どうして?」
「思い出したんだろ、初心ってやつをさ」
「そんな、まさか」
「事実さ」

 泣きながら、なんとなく理解した。
 これはきっと、『俺』の涙。悔しさから解放されて、克服できて、終止符を打てて、再び始まりを手に入れて、嬉しくて溢れてしまった感情だ。止める事なんてできやしない。俺は始めて、自らの意志で、自らがはまるべきパズルを選び抜いたのだから。

 だから俺はハンカチでできるだけ顔を拭った後、会長へと向き直って、

「会長」
「ん、なんだい?」
「生徒会に入る話、ですが、その。
 いや、是非生徒会に入れてください!」
「フィィィィィィッシュ!」

 魚じゃねえ。

「まあ今回は支倉を釣り上げたというより、伊織が支倉に釣られたようなものだったがな」
「それは言うなって、征。こうなることまで予想済みだったのさ……とでも言えば格好もつくんだろうけど」
「まあいい。よろしく頼むぞ、支倉」
「はい! ありがとうございます!」

 歓喜と安堵が同時に渦巻いていく。今まで味わったことのない感覚。それはそうだ、転入先でこうまで期待を胸に何かをしようと思ったことなんて、ただの一度もないのだから。泣くことくらいは許して欲しい。もう一度涙を拭うも、やっぱり止まらない。

「俺も存分によろしくしてあげようじゃないか。
 それに、これで瑛里華の機嫌も治るってものだ。いやあ、支倉君が記憶を失ってからというもの、日に日にやつれていく瑛里華を見ていくのは兄として心苦しく――」
「に、兄さん! 適当言わないで!」
「そうかい? だったら瑛里華も歓迎してあげたらどうだ。
 少し遠回りしてしまったが、結局は同じ事だろう?」
「何がだったらなのかは知らないけど……」

 ようやく止まってきた涙、まだ微かに霞む視界。副会長は俺の真っ正面に立つと、その細い腰に両手をあて、いつかのように眩しい笑顔をたたえて、言った。

「ようこそ、修智館学院生徒会へ!」

 差し出された手に、今度こそ俺はしっかりと握手をして。
 俺の新しい学院生活は、少しばかりの紆余曲折を経て、今こうして始まったのだった。


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Short Story -Fortune Arterial
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