その幸せを噛みし

[da capo U short story]
 全てが終わって、既に数日。
 やりたい放題(主に杏とリオが)やったせいで校内を台風が駆け抜けたんじゃないかって有様だった風見学園の校舎内も、少しばかり滞在したリオの部下達と生徒会によって一応は修復された。跳弾の後や雪崩トラップに使ったロッカーに残っている凹みなど後回しにされた傷痕もあるが、知っていなければそれがそうであると気付くはずもないし、むしろその程度、俺たちのあの結束の証として残しておいてもバチは当たらないだろうとも思う。リオと杉並の掌の上での結束ではあるが、あの感情は嘘ではなかったのだから。

 エリカについては、言うまでもないだろうが、初音島での滞在が延びたこと、それに対する喜びようはもはや筆舌に尽くしがたいほどのものだった。フローラさんに対してのなにがしかの感情を見せてはいたものの、それでも(二つの意味で)嬉しいことに俺と一緒に居られることをエリカは喜んでくれて、そして彼女の望むがままに俺はそれから短くない時間、ずっとエリカの部屋で過ごしていた。取りあげられるはずだったその幸せな時間、現実に過ごせているという充足感は、きっと俺とエリカに共通する思いだったに違いない。

 とはいえ時は授業期間の平日まっただ中、ずっとエリカの家に滞在するというわけにもいかず、名残惜しい表情を隠そうともしないエリカに後ろ髪を引かれながらも俺は一旦家へと戻った。それからは以前のように、朝早く起きて姫を迎えに行く仕事で一日が始まるようになっている。

 そして、今日は久々の休日であり。
 しかし俺はいつものように――そして昔では考えられないくらい早起きをして――エリカのマンションへと赴いて、その部屋のドア、インターホンでエリカを呼び起こす。

「エリカ、起きてるかー?」

 別の部屋まで聞こえないくらいの、それでも部屋の奥のエリカには届くような微妙な声加減も既に習得済み。返事が無い場合は、言ってからもう一度インターホンを押す。これでたとえ眠っていたとしても、だいたいはエリカも起きるのだ。普段は。

「……あれ? おーい?」

 インターホン、声、ノック。普通であればドタドタとベッドから降りて部屋を駆けずり回る音が聞こえ始めるはずなのだが、今日はどうにもそれがない。部屋に居ない、ということはまずないだろうから、どうやら爆睡をかましているらしい。とんだ姫様も居たものだ。
 相変わらず、どこか抜けているというか、なんというか。

 まあいい。そういうことなら無理に起こすよりも、先に朝飯を作ってあげていよう。そう思い直して、起こすつもりでノックしていた騒がしさを一転、起こさないように静かにカチャリと扉のカギを開ける。やや重めのドアをゆっくり開閉し、滑り込ませるようにその身を中へ。案の定リビングには誰も居らず、そこで俺はそっと息を吐いて――って、泥棒か何かか、俺は?

「おじゃまします、と」

 一応それだけは口にして、勝手知ったるなんとやら、鍵を閉め鞄を床に置いてから、エリカの寝室の戸をそろりそろりと開けてみる。一つは起こさないため。もう一つは、万が一起きていて着替え中だったときにバレないようすぐ閉められるようにだ。そんな嬉し恥ずかしハプニング、遭遇してしまったら俺の頬に綺麗な紅葉のできあがりになるのが目に見えている。

「……」

 そうしてやっぱり、エリカは自らのベッドで優雅に眠り続けていた。
 カーテンの隙間から漏れ入る光も上手い具合にエリカの目蓋を避けていて、まるで寝入りばなのときのようにゆったりとその身体が呼吸で静かに上下している。少しばかり寒いのか、毛布を肩までくるむように抱え込んでいて、しかし強引に肩までかけているせいでその綺麗な足が布団の外へとはみ出ている。それがまた寒いのか、見ているとなおもぐっと毛布を引き上げて、そのせいで今度は毛布と共にパジャマの裾まで上がってしまった。……難儀なやっちゃ。

「お姫様なんだから、もうちょっと寝相が良くてもいいだろうに」

 でもまあ逆に寝ている間は着飾らないでいいのかな、なんてことを思いつつ、変に丸まっている布団を引き下げて足まですっと覆ってやる。意に反して布団を引っ張られたことに多少の反発もあったが、しかし温かくなったのを感じたのだろう、少しばかり不快げだった表情は一気に弛緩し一層深い眠りに落ちたようだった。端正な顔は安らかに、決して小さくはないその胸は重ねられた重い掛け布団から解放されて身体と同様に穏やかなリズムを刻み始める。

 昔はつんけんしていた、そして今は優しげなものを見せることが多い、その表情。眠っている間のそれはそれらのどれとも違っていて、幸せそうに眠りこけている姿は俺を何とも言えぬ気分にさせてくれる。一本気なところがあるエリカも今だけは無防備で、これを見ることを許されている――実際この出迎えには「起こすこと」も含まれている――のが俺だけであるという事実、嬉しくならないはずがない。

「ぅん……義之……」

 軽く寝返りを打ちつつ、寝言。何かを求めるようにその右手を掛け布団から伸ばしてきて、そのまま弱々しくもぎゅっとシーツを掴む。しかしそれが俺ではないと分かったのだろう、ぱっとシーツを離して、再びその手をゆらりゆらり。なんだかその仕草が親鳥を求める小鳥のようで可愛らしくもあったのだが、しかし折角俺自身が居るのだし見ているだけというわけにもいくまい。ぎゅっとその手を握り返してやる。と。

「……ん」

 どう判別したのかは知らないが、どうやらそれが俺自身の手であることを悟ったようで、そのままエリカはぐぐっと俺の手を布団の中へと引っ張っていった。どうやら懐に抱え込むつもりらしい。

「俺、メシ作ろうと思ってたんだけどなあ」

 苦笑しつつも、しかしその手を振り解けようはずもない。抗議のために反対の手でエリカの頬をぷにぷにとつついてみるものの、結局大した効果はなく。腕が引っ張られているので仕方なく俺もベッドの上に乗っかると、抵抗が無くなった隙にぐいっと一気に腕ごとエリカに引っ張り込まれた。倒れ込むようにして俺もまた掛け布団の中へ入ることを余儀なくされる。
 ……いつも感じていたい、エリカの香りと温かさがそこにあった。

「よし……ゆき……」
「おう、義之だぞ」
「ぅん……」

 分かっているようでさっぱり分かっていないまま、エリカはまるで見えているかのように的確に俺の身体に絡みついてくる。普段からして腕にぶら下がるかのようにしてくるエリカ、無意識でさえ俺のことは分かるらしい。一緒に寝るときとまったく同じように、ぐっと俺の首筋にその頭を埋めてきて、身体を押しつけてきて、足を絡めてくる。……いやだから、俺はメシを作ろうとしていたはずなのだが。

 とはいえ、ここまで来てはもうどうすることだってできやしない。エリカの許しがなければ、ここから離れることすらできまい。覚悟を決め――とわざわざ言うほどでもなくいつものように俺もエリカを抱きしめ返し、その艶やかな髪ごと頭を撫で付ける。起きているときであっても、この行為だけはエリカがぶつくさと文句を言うことはない。だからきっと、好きなんだろうと思う。頭を撫でられるのが。

 そしてまた、起こす素振りを見せぬエリカを見ていて、ようやくそこに思い至る。
 つまりはきっと、疲れが出たのだろうということ。結果的には芝居だったとはいえ、必死こいて丸々四日間以上を逃げ延びたあの逃走劇。ゲリラじみた生活は相当のストレスにもなったはずで、それはたとえここの滞在延長が決まったとしても、一朝一夕で取り払われるものではない。肉体的にも精神的にも溜まっていた疲労、もちろん俺が軽減できなかったわけでもなかろうが、むしろエリカは俺と少しでも一緒に居たいがために休息を取ることをおろそかにしていた節もあって、それゆえにおそらくはこういう結果になってしまったのだと推察された。
 ……溜まっていた極度の疲労。だからまあ、このまま寝かせておいてあげるのもいいかななんて、そんなことを思ってみたりもして。

「……」

 そうして俺を完全に抱え込んだまま、エリカの身体から再び強ばりがふっと抜け落ちる。規則正しい呼吸は、今度は俺の耳元から。胸元は上下する空間もなく密着していて、鼓動すら伝わってくるかのよう。温かく柔らかい、そんな感覚に満たされているうち、そういえば俺もここに来るまでで身体が冷えていたことを今更ながらに悟る。背中には掛け布団、前には密着しているエリカ。俺の身体もまた心地よい温かさに包まれてエリカをぼんやりと眺めているうち、ゆっくりとその目蓋の重みが感じられ始めた。完全に閉じてしまう前に一層エリカを抱きしめて、それに呼応するようにエリカもまた俺にぐっとひっついてきて、それに安堵を覚えた俺は、遂にその目を閉じたのだった。



       ○  ○  ○



「――――やっと起きたわね」

 微睡みは、その声によって一気に振り払われた。
 ……頭がぼーっとする。視点の合わない目。それでも身体全体から伝わってくる温かみと柔らかさは意識することなく事態を理解していて、それにようやく後から脳が追随する。目の前には俺と同じく横になっているエリカの顔。長い髪が飛び跳ねていて、俺の頬をも掠めている。少しばかりくすぐったい。

「ああ。ええと、おはよう、エリカ」
「おはよう義之。……と言いたいところだけど、残念ながらもうそんな時間じゃないわね」
「うん?」

 咎めるように、けれどどことなく嬉しそうにエリカがその白い指で示した先は、机の上の置き時計だ。ぼんやりとした目を向けてじっと凝らすと、次第に文字盤と針がその具体像を示しだしてくる。短い方は11を少しばかり過ぎており――

「……え。マジで?」
「マジよ、マジ。まったく、人を起こしに来てそのまま寝ちゃうなんて……こういうの、なんとかって言うんでしょう?」
「ミイラ取りがミイラになるってやつか?」
「それよそれ。もう、勘弁してよね」

 口を尖らせて、でもやっぱり目尻を下げつつそんなことを言ってくる。
 ……そうだ。今日は泊まっていったわけではなく、朝早起きしてわざわざエリカを起こしに来たんだった。
 だからつまりこれはある意味では二度寝であるわけで、こんなぶっ飛んだ時間に起きてしまうのも頷ける。

「しかもわざわざベッドにまで入ってきて。変なことしなかったでしょうね?」
「してほしかったか?」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ! そういう意味じゃなくて!」

 否定はしないのか。

「だ、だから、えと、その……」
「っていうか、俺を引き摺り込んだのはエリカの方だぞ?」

 言うと、どうせエリカのことだ、顔を赤くして「そんなことない」とか言ってくるかと思いきや、急にしおらしく、起きてもなお離れていなかった身体をよりぎゅっと抱きしめてきて、

「……うん」

 なんて、小さく頷いてもきやがった。繋がれた手が一層強く握られて、まあ、要するに。

「起きてたのか?」
「ううん、そうじゃないけれど……なんか、何となくね、義之が居てくれるような気がしたのは覚えてる。それで安心しちゃって、特に意識することもなくいつもみたいに身体が動いて」

 で、一緒に寝るときみたいに俺に絡みついてきた、ということか。
 言ってる本人も俺を引きずり込んだという事実が恥ずかしくもあるのだろう、顔を赤くしながら、でもやっぱり俺からは離れずに、布団にくるまってぼそぼそとなおも言い訳めいたことを呟いてくる。
 それがまた、なんとも言えず愛おしい。思わず空いた方の手でその髪を梳いてやる。エリカが背中を撫でられている仔猫のように目を細めた。

「疲れてたんだろ?」
「え?」
「朝、インターホンとかで起きなかったからさ。だったら寝かせておいた方がいいかな、って思ったんだ」
「だから、起こさなかったの? いいのに、そんなに気を使わなくても」
「従者じゃなくて恋人だからな、俺は。たとえエリカの頼みでも、俺はよりエリカのためになる行動をとるよ」
「……相変わらず、勝手なのね」

 そうしてエリカは、俺の胸元にその顔を埋めた。
 きっと思い出しているのは、あの逃走劇の発端だろう。地下アジトでの潜伏そのものかもしれない。どちらにしろ、俺たちはエリカの意向をある程度無視して、エリカのために彼女を匿い続けた。もちろん最終的にはエリカの意志でもあったわけだけれど、港でエリカを引き留めたこと、たとえ演劇の一部だったとしても、俺はもう一度あんなことがあればやっぱり同じ選択をするだろう。エリカがそれを望まなかったとしても、だ。
 それはある意味では自分勝手。だからそれは従者では出来ず、恋人である俺にしかできまい。

「勝手ついでに何だけど、今日のデートの予定は変更することにした」

 エリカの背中に手を回し、そう告げる。胸元に埋めていたその顔がふっと上がって、その表情は一瞬考えた後どこか含みを持った笑顔へ。俺の言いたいことが分かったのだろう。

「ほんと勝手ね、義之は。どうしたいの? 聞くだけは聞いてあげるわ」

 足を絡め直し、以前のようにご主人様ぶった口調で問うてくる。それでもその顔つきは前と違ってずっと穏やかで、それは俺をずいぶんと優しい気持ちにさせてくれる。そしてまた俺の言うことが分かっているからか、エリカの顔がぐぐっと近づいてきて。

「今日はこうして、ずっとごろごろしていよう」

 期待通りの言葉を返すと、エリカは「しょうがないわね」なんて笑って、その唇をいつものようにぐっと押しつけてきた。これ以上ない了承の返答。起こす必要のなくなった身体はより一層ベッドに沈んだようにも感じられて、気兼ねする必要のなくなった俺もエリカも相手が寝ていたら起こしてしまうほどに強く互いを抱きしめ合って。


 ……懸念の振り払われた、何の変哲もない平穏な休日のこと。
 俺とエリカはそうしてゆったりとした一日を過ごしたのだった。

 ――一度はその手から抜け落ちていきそうになった、その幸福を精一杯に噛みしめながら。

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Short Story -D.C.U
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