Umbrella for withstanding

[comu short story]
 結局、命がけで手に入れた物はたった一枚の紙っぺらだった。
 家庭用プリンタで印刷したような、なんの変哲もない白地に黒の名刺。そこにメールアドレスやURLが書かれているのも今日び珍しいなんてことはなく、ビジネスのそれとの大きな違いはただ一点、組織名に横文字のルビが振ってあることくらい。
 ”円卓”と書いて”ラウンド”。大仰な名前だと、あのチンピラは鼻で笑っていた。

「おじゃまします。いやー、これで二度目ですがやっぱりおっきいですね。ワケありヒロインを泊める空き部屋まで完備とは。これでトラウマのためにずっと開けられていない部屋とかあれば完璧なのですが」
「ない。どっちもないよ」
「連れ込んだ女を寝かせるための部屋はあるがな」
「それもありません! 人聞き悪いこと言わないように、カゴメさん」

 はっ、と口元を吊り上げるカゴメ。それに対して紅緒が「わー」だの「きゃー」だの「教育的――」だの言っているけれど、構っていたらそれだけで日が暮れてしまう。
 いやまあ実際、既に日が暮れるどころか深夜を回っているんだけれども。

 ……俺たちは名刺の主――高遠奈々世との対決に勝った後、そのまま帰宅することとなった。いつものようにさっさと別れた伊沢、どこぞへとふらっと消えた春。真雪はどうせ調べ物と話し合いをするなら、と言って俺たちについてきて、紅緒、カゴメを含む計四人、家主に続いてぞろぞろと我が家の玄関を跨いでいく。
 極度の緊張からの解放感。それを感じているのは、きっと俺だけではないだろう。

「あ、親御さんに連絡とかはしなくていいのか?」
「私に言っているんですか? うちの親は頻繁に外泊していていないので。特に問題はありません」
「エロゲ設定?」
「……そんなにいいものじゃありません」

 帰りに買ってきた夜食を床に放りつつ、リビングの電気をつける。カーテンは既に閉鎖済み。紅緒を気にかけて一応窓の外の様子を眺めてみるものの、魔女やアバターが張り付いているということはなく。見えるのは他の家の明かりと、窓ガラスに映る俺の疲れ切った顔だけだ。
 それでも何となく、用心にと思い鍵を閉める。見えてるだろうに、カゴメは文句を言わなかった。

「ああ、なんか戻ってきたらどっと疲れた……。暁人くん、シャワー借りるねー」
「あいあい。ごゆっくりどーぞ」
「それを偶然にかこつけて覗き見するわけですね? 定番です」
「どこの世界の定番か、どこの」
「まあ、偶然を二度も故意に起こすほど、暁人も馬鹿じゃないのかもしれないしな」

 カゴメがせせら笑いつつ俺の部屋へと消える。
 残ったのは紅緒の名前より赤くなった頬と、眼鏡の奥の絶対零度。赤い方はさっさと浴室に引っ込み、すすす、とかえるの帽子は自らの肩を抱き後ずさった。

「偉い人は言いました。ロリコンは犯罪です」
「ロリコン違うし故意でもねーってば。寝ぼけてたんだよ……」
「それが本当ならあなたはやっぱり主人公属性持ちですね。あるいは同居人に手出しはできないくせに覗き見はするただのヘタレか」
「どっちも違います」
「まあいいです。それより早速ですが、パソコンを出していただけますか?」

 冗談だったのか、はたまた最初からこちらの話など聞く気はないのか。ちみっこはさっさと鞄を投げ出し、テーブルの前に座り込んだ。
 その手にはわずかな暇をも埋めんとするかのように、いつも通りの赤い携帯。今日の召還は林の奥だったからさほど騒ぎになっているとは思えないが、それでも爪痕というのは残るものだ。妙な目撃情報が出てこないとも限らない。

 ノートパソコンを棚からテーブルに移動させ、電源をコンセントに繋げる。ネット回線はもちろん無線LAN。これだけ高いマンション、回線が無い方が珍しかろう。
 ちなみに本体のノートはこっちに戻ってくる時は既にこれだったから、もう2年以上は使っていることになる。最新型からはほど遠い。けど、使い道はせいぜいネット巡回やチャット程度。充分だった。

「ああ、あとコレか」

 上着のポケットから名刺を取り出す。ちっぽけな戦利品。ボスを倒したのだから、もっといいものをもらっても良さそうなものだが。

「まだまだ先日の爆発の方が話題になっていて、今日のことを書いているブログや掲示板は見当たりませんね……。まあ、話題になられても困るんですが」
「その辺りは俺たちよりあっちの人たちのが神経尖らせてたからな。……パソコン、ついたけど。任せていい?」
「いいんですか?」
「なんか、そっちのが詳しそうだし。俺は飲み物の用意でもしてるよ」
「ああいえ、そうではなくて。履歴とかブックマークとか」
「……できるだけ見ないようにしていただけると」
「ですよねー」

 にやっと笑い、それでも承諾の言葉を返して真雪がPCを手元に引き寄せる。ブラウザを立ち上げるのも慣れたもの。気を遣っているのかすぐにブックマークの枠を消して、名刺を見ながら検索窓にURLを入れていく。

「ま、検索には引っ掛かりませんか」

 とかなんとか言いつつあるその姿は、もうあたかもそこが自宅であるかのような集中っぷり。
 安心して任せることにして、俺は人数分のコップと飲み物を取りに台所へと下がったのだった。



       ○  ○  ○



 深夜。淡々と世界情勢と経済状況を喋り続けるアナウンサーの声だけがリビングに響き渡る。
 テレビを見ているのは、いつもながらのラフ(すぎる)格好で足を投げ出しソファに寝ころぶ、俺より遥かに偉そうなカゴメ。リモコンの反対側の手には帰りに買ってきたハンバーガーがあり、もぐりもぐりと美味しいんだか不味いんだか分からない表情で食べ続けている。どことなく暇そうな目つきからも、テレビの内容にさほど関心があるようには見えなかった。

 それに加え、テレビの音に紛れて時々響くのはキーボード特有のカタカタした音と、放熱のためのファンの音。ノートパソコンの薄い画面は、もう何時間もネットの海の情報を映し出し続けている。操っているのは、一度シャワーを浴びるため席を外した以外はかかりっきりになっている真雪。かえる帽子を脱いで髪を結い上げたその頭は、いつもと少し違って見えた。

 ちなみに「まゆまゆとお泊まりだー」なんて言っていた紅緒は、シャワーから上がってすぐに眠ってしまった。正義の味方は俺たちよりずっと夜が早いらしい。

「で、どんなもん?」

 眼鏡越しに画面を操作し続ける真雪に、大雑把に説明を求める。

「情報量はかなりのものがありますね。けどそのどれもが経験から推測されたものですから、曖昧だったり不可解だったりする部分もたくさんあります。ここら辺、公開後間もないネトゲの情報サイトに通ずるものがありますね」

 分かりづらい感想。情報の提供側もまた色々と手探り状態である、と言いたいらしい。

 確かにゲームマスターや運営がいるわけでもなし、確定したデータやルールは少女Aにでも聞かなければ分かるまい。例えば「アバターはどっから来たの?」とか、「あの無衝撃の落下は何なの?」とか。
 いや、少女Aがそれを知ってる確証は全くもってないけれども。

「アバターやコミュ内の役割にも色々分類があるようですが……そういう細かいのは後にして、今はコミュやラウンドについて調べてます。思ってたよりずっと規模が大きそうですよ」
「円卓なんて大層な名前をつけてるくらいだ、奴らだけで最低でも13以上のコミュがあると考えるべきだろう」

 口を挟んだのはいつの間にやら左手のハンバーガーを平らげていたカゴメだ。相変わらずの食いっぷり。そしてなおもファストフードの袋をがさごそと漁っている。これで太らないってんだから、まったくもって無駄に魔法めいている。

「フッフールみたいのが13以上組んでるってのか。そりゃ逆らう気も失せるよな」
「それが13どころじゃないみたいなんですよ。円卓の幹部の数が13で、加盟しているコミュはそれより遥かに多いみたいです。あながち名前負けというわけでもないわけですね」
「まあ、聞く限り精鋭ってより、数の暴力って感じだけど」
「そのくせ新参への挨拶に単騎で来て、あまつさえ負けたのだから、奴らは暁人並の馬鹿だな」

 戦況を一人でひっくり返した魔女が嘲笑する。
 一応断っておくが、嘲られたのは俺ではない。……多分。

「しかし、となると――」
「どうかしたか?」
「……」

 カゴメが難しい顔で黙考する。皮肉の一つも言う場面、こういう反応は珍しい。
 それでも平然と俺の前に置いてあるハンバーガーに手を出す辺り、結局は唯我独尊のカゴメ様だ。
 それが恨めしそうに見えたのか、カゴメはふっと視線を上げて。

「ハンバーガー1つで随分と情けない顔だな。どうせ暁人の金だ、気にするな」
「それは俺に向けて言う台詞じゃねえだろ。というか、情けない顔だってしちゃいない」
「それもそうだな。それが普段の顔だったか」

 相も変わらずブラックな笑みを投げて寄越した後、新しいハンバーガーをぱくり。空いた手では、まるで家の主のごとく偉そうにリモコンでチャンネルの変更。ニュースが終わったところだった。一応見てはいたらしい。

「……むぅ」

 対してちみっこは俺とカゴメのやりとりに何を言うでもなく、黙々とマウスをいじっている。開きっぱなしのブラウザ。手を休めるのは、買い置きしてあるポテチに手を伸ばすときくらいなものだ。
 どうも使命感というよりは、こういうのに熱中してしまうタイプらしい。ゲーム好きなようだし、分からないでもないが。

 どちらも己の関心事に没頭するのを見て、俺もカーペットに身体を投げ出す。目を閉じれば寝てしまいそうな、それでいてどことなくハイテンションめいた、徹夜特有の妙な気分。
 それでもここしばらく続く緊張の疲労からは逃れがたく、俺は少しだけ休憩をすることにした。色々と整理したいこともあるが、それは例のウェブサイトを見終わってからでいいだろう。仮眠用の布団を引き寄せて、集中している二人に気を遣わせぬよう目を閉じる。
 けれど、やっぱり魔女は気付いて。

「……」

 俺に一瞥くれた後、それでも俺の休憩に何を言うでもなく、カゴメは真面目な顔のままハンバーガーをぱくついたのだった。



       ○  ○  ○



 夜が明けて。
 カゴメは、だから真雪がコミュペディアからその記述を見つけるより先に、そのことに気付いていたらしい。

「強大な力の隠蔽というのは普通、ある種の切り札としてそれを隠しておくために行われる。何か目的を持って、あるいはいざというときのためにな。だがあの有象無象にそんな野心があったのであれば、2年も伏していることに説明がつかない。存在すら明かさない切り札は、抑止力としての効果すら持つまい」

 パソコン上に映し出された驚愕の事実を前に、カゴメがその理屈を語る。対して、いくら半端な睡眠でも命を脅かす現実を突きつけられれば目は覚めるもので、俺は一言一句漏らさぬようにブラウザに表示された文字を読み続けていった。
 隣には「読み切るのに朝までかかった」と愚痴をこぼしている真雪。心底不機嫌そうなその態度にこの事実に対する恐怖のようなものはあまり見られず、やっぱりこのちみっこは意外と図太いんだなと感心せずにはいられない。

「ラノベなんかでは、世界の均衡が崩れるだとか、そういう社会が既に出来上がっているだとか、色々設定がありますけどね」
「だが遥か昔からあんなものが存在しているならともかく、聞く限りではここ2年のことだと言う。とすればあの小ネズミのように自己利益のために用いる人間がまず居なければおかしい」
「ええっと……みんながみんな、良い人だったとか」

 口を挟むと、カゴメに台所の生ゴミを見るような目で見られた。
 いや、でも流石に俺だってそこまで脳天気じゃない。紅緒だったら本気でそう言いそうではあるけれど。

「あれ、じゃあラウンドってのは何でアバターを隠蔽しようとしてるんだ? やっぱり、常識人が多いってこと?」
「馬鹿かお前は。そんなだから暁人と呼ばれるんだ」
「いや関係ないし! 名前だし!」
「理屈は単純だ。別にあの有象無象は隠蔽したくてそれをしているわけじゃない。そもそも奴らが組織化するのは、他ならぬ自分自身のためだからな」
「ナチュラルに戦争状態ですからね。ホッブズ大喜びですよ」

 そのうちリヴァイアサンなんてアバターも出てくるんじゃないですか、なんてちみっこが皮肉げに呟く。だとすればとんだ恥さらしだな、とカゴメが応えて。

「だから奴らの組織は、社会契約以外に有り得ない。現代社会との軋轢を回避するだとか、そんなものは題目だ。結局誰かの独断専行を戒め合うための鎖にしか過ぎん」
「嫌ですねえ、泥臭くて。アバター使って一儲け狙う集団、とかのがまだ面白みがありますよ。ま、そうなると紅緒さんみたいのが5人集まる正義のコミュが必要ですが」
「……きっついなあ」

 優しすぎる世界に溜息を吐く。

 たった数人で用いるには、強力すぎるアバターという怪物。その使い道さえ、世界は善も悪も許してしまう。真雪の言うとおり、正義の心を持つ選ばれし者だけが、なんて設定の方がまだマシだ。
 アバターは自分のために人を殺せる。相手のアバターも潰せる。けれど、トリプルアクセルみたいなアホなことだってしてしまえる。ある側面から見れば正義の味方にだってなれるだろう。

 コミュは俺たちを繋ぐ爆弾だ。理不尽に決められた五人。あらかじめ決められていたアバターの能力。そんな生まれの不公平さは、この世界の有り様にとてもよく似ている。それはもう、愚痴の一つも吐きたいほどに。

 だから気付いたときには誰かを殺していただなんて、そんな事実もまかり通るのだ。

「まったく、縛り合うのが好きな連中だ。コミュは降って沸いたものだとしても、その縛りを解くどころか余計な縛りを増やすとは」

 強者の理屈。
 そのまま不機嫌そうに鼻を鳴らし、何の予告もなくソファから身を持ち上げてリビングを出て行くカゴメ。後ろ姿を眺めていると、

「なんだ、ここで脱いで欲しかったか?」
「馬鹿言え。シャワーならさっさと行ってこい」
「何なら一緒に入っても構わんぞ」

 いつもの挑発。それでも一瞬だけ想像をしてしまった辺り、俺もいつまでたっても学習しない。
 視線が泳いだのが分かったのだろう、見下すように笑いを吐いて、魔女は廊下へ消えていった。

「変態さんですね」
「それはカゴメに対してか? 俺に対してか?」
「ご想像にお任せします」

 しれっと言って、まだ残っていたジュースをちゅーっとストローで吸い上げるちみっこ。図太い。

「で、図太いまゆきん的にこのルールはどうなの? あんまりショック受けてないみたいだけど」
「設定としては50点ですね。わりかしよくあるパターンです。ゲームなんかではアバターを殺された人間は、生身の人間だからという理由で助けられることもありますが……実際はそのまま殺されるでしょうからね、あんまり変わらないんじゃないですか」
「ずいぶんと他人事のようなご意見だことで」
「……」

 軽口に真雪は応えない。
 達観してるのか、あるいは他の理由があるのか。ちゅーちゅーとジュースを飲むその顔からは何を読み取ることもできなかったものの、すぐに「もうだいぶ温いですね」なんて不機嫌そうに呟いて、

「昔、こう言った人が居たそうです。曰く、『この世界は呪われている』と。生まれの不公平を呪いだとするなら、比奈織さんの言う契約もまた呪いなんでしょう。私たちは始めから呪われていて、そのために私たちもみんなを呪うようになる。社会を表しているにしては、ずいぶん詩的だと思いませんか?」
「俺たちの首に繋がれた爆弾もそうだと?」
「少女Aが陰でわら人形に釘でも打ってれば、面白いんですけどね。意外性があって」

 言って、その言葉を本気で面白いと思っているのか、まるで洒落たジョークが炸裂したかのように得意げな笑みを浮かべる。
 服装のセンスもそうだが、笑いのツボもちょっと分かりにくいちみっこだった。

「ま、呪いっちゃ呪いみたいなもんかもしれないけどな……」

 少女Aがこつこつ釘を打つ姿は想像できやしないけど。
 誰かが互いに釘を打ち合う姿は、抽象的であるにもかかわらずなぜだか容易に想像できる気がした。

 結局は何も変わっちゃいないのだ。一人では何もできないし、知らないところで何かを誰かから奪っていないと生きてはいけない。呪われたこの世界は優しい王国と、だから切っても切り離せない、表裏一体の関係だ。
 爆弾。呪い。踏んだらアウトなのは、どっちも同じだから。

「アバターの種類は選べません。私たちがあの屋上に集まったときから、既にアバターは決められていた。たとえそれがとっても弱っちいものだったとしても、私たちにはその運命を受け入れるより他になかった。メンバーだってそうです。私以外全員が伊沢さんみたいな人だったとしても、そこに拒否権はありません。ネトゲのギルドならともかく、命のかかったチーム分けでそんな不公平がまかり通るんですから、こんなの呪い以外の何ものでもないですよ」
「そう考えると、あの黒い竜にしろメンバーにしろ、俺たちは充分マシな方だったのかな」
「それは分かりません。力があれば疎まれますし、常識人にはいかれた人の思考は理解できません。それでも一つ、確実に言えることがあるとすれば――」
「あの竜が弱いアバターなら、俺たちはとっくに死んでたってことだな」

 それはまるで、生まれた瞬間に呼吸不全で死んでしまう赤子のように。
 本人の善も悪も関係なく、全くもって無意味な終焉は何の前触れもなしにやってくる。優しい王国は、それが何であれ全てをあっさり押し流す。

 自分が特別だと思ったことなんてない。選ばれた何かであるという考えなんて、そもそもハナから持っていない。
 俺たちと、あの巨人のコミュを分かつものなんて、どこにだってありはしなかった。こっちのアバターがとても強くて、強力な楯を持っていて、並外れたセンスの伊沢がメンバーに居て。
 そんなもの、無価値の上に積み重なった単なる現実でしかない。俺たちにとっては呪いであれ、相手にとっては全てを押し流す絶望だ。
 それを俺のあの魔法の言葉のせいだと信じてしまうには、俺たちは少し年齢を重ねすぎている。

 ――それでも。

 そう。全てが”そう”だと承知した上で、それでも”それ”が意味を持ったのだと信じることができたなら。
 そうすれば俺も、あるいは何かを見つけることができるのかもしれないな、なんて。

「ん、そろそろお日様が昇る頃ですね」

 考え事、あるいは夢物語を遮る声に、視線を時計へと移す。
 雀の鳴き始める時刻。今日のおとぎ話はもう終わりだと告げていた。

「もうこんなか。紅緒さんも起きるだろうし、そうしたら朝飯だな」
「結局朝までかかりましたね……。メイドさんたちを呼ぶんでしょう? 私はちょっと休みます、二人が来たら起こして下さい」
「飯は?」
「夜通しお菓子をつまんでいたのであまり空いてません。少しでも太ると周りがうるさいので気を付けてはいるんですが、今回は仕方ないということで」

 よく分からない言い訳を呟いて、かえるの帽子を抱えつつ真雪は寝室へ消えていく。足取りは重い。見えなかったが、結構疲れていたらしい。
 ちなみに寝室、扉の開閉がゆっくりなのは紅緒に気を遣ってのことだろう。なんだかんだで頭は回る。紅緒を小馬鹿にしつつも、わりと相性はいいのかもしれない。

 さて。そうして一人になったリビング、とりあえず食い散らかしたジャンクフードやらお菓子やらのゴミを片付けて、使い終わったコップも流しへ全て持って行く。カーテンを開けるにはまだ早い。エアコンの設定を少しだけあげて、あとはカゴメに朝食の準備を任せるだけだ。
 一仕事終え、夜通しカゴメが占領していたソファに身を投げる。ほのかに残る温かみはむかつくくらい心地よかった。猛毒の精神安定剤。

「はあ……」
「どうした? ああ、半裸で座っていた美しい幼馴染の残り香で、日々溜め込んでいるやむにやまれぬ衝動を吐き出す行為に没頭してたのか」
「一人で勝手に納得すんな」

 湯上がりのカゴメが、いつもの格好でいつものように近づいてくる。相変わらず無駄にふてぶてしい。
 そうしてそのまま、空いたスペースどころか俺の居る場所まで自分のものだと言わんばかりにどかっとソファへ座り込んだ。当然俺の抗議の声に耳を貸す素振りはない。

「で、終わったのか? 女たらしの呪いにかかってる暁人」
「聞いてたのかよ。っていうか始まってもいねえ」
「後者は否定しないあたり、救いようのないバカだな」
「うるせー」

 ふてくされつつ吐き捨てる。カゴメは気にせず、その背でぐっと俺に寄りかかってきた。湯上がりで火照る背中。絡みついてくる、湿り気を帯びた長い黒髪と甘い香り。反発するように押し返す。何のことはない、いつも通りの関係。

「そういえば、約束のウジヤのチーズケーキをまだ食った覚えがないな」
「分かった、分かった。あからさまに要求しなくても、ちゃんと次のバイト帰りに買ってくるから。それよりそろそろ朝飯にしたいんだけど、いいか?」
「眉目麗しい幼馴染が朝ご飯の用意か。自慢できるぞ、暁人。なんなら優しく起こしてやっても構わないが」
「謹んで辞退する。……ん、紅緒さん、起きたかな」

 ぱたりと寝室の扉の開く音。
 カーテンの隙間から入ってくる光はまだ弱い。正義の味方の朝は少しばかり早いようだった。

「今日は騒がしくなりそうだな。おちおちテレビも見てられん」
「来客あっても普通に見てるくせによく言うよ。あと、伊沢も呼ぶけど部屋ん中で大暴れするなよ?」
「努力はするが保証はできん。あの小ネズミ次第だ」

 どうでもよさそうにそう言いながら、朝食の準備のために立ち上がるカゴメ。その様子からしても、やっぱり一悶着くらいは覚悟しておいた方がよさそうだった。
 ま、どのみち伊沢が沈められて終わりだろうが。賭けてもいい。五千円くらい。

「さて、それじゃ今日も一日頑張りましょう、と」

 消していたテレビをつける。やっていたのは朝特有のテンション低いニュース番組。ザッピングしているとそのうち寝ぼけ眼の紅緒がやってきて、すぐに台所から調理の音が聞こえ始める。

 何か新しいこと分かったの、と紅緒さん。
 あとでみんなと一緒に教えるよ、と俺。きっと彼女は誰より深く傷つくだろうから、起き抜けに言うべき事は何もない。

 テレビに目を向けた紅緒を横目に、携帯を開く。
 連絡は春が先でいいだろう。伊沢の方にはさてどう言ったものかなと考えながら、俺はアドレス帳を呼び出したのだった――。

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Short Story -その他
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