せっかくだからくっついてみた
[da capo U short story]
扉がノックされたのは、渉をようやくベッドに寝かしつけた直後のことだった。
一月一日、深夜。酒盛りが一応の収束を見、明日もあるスキーに備えてみんなが床についた時間。俺は最後まで残っていた杏を部屋から出した後、部屋の片付けをしていて――渉をベッドまで持って行くのは”片付け”と言って差し支えなかろう――そのノックを聞いた。
杏だろうかと思い、静かにドアを開ける。
「どうした、天枷は――って、茜?」
廊下に立っていたのは、予想外の人物だった。
「やっほ、義之くん。みんな眠ってる?」
「あ、ああ、渉は見ての通りだし、杉並も寝たけど……」
「じゃあちょっと付き合ってよ。
いやあ、眠れなくてねぇ。小恋ちゃんはすぐ寝ちゃうし、そういえば飲み足りなかったな〜って思うしで」
どうしたものかと考える。
明日のスキーを考えれば今すぐにでも寝ておきたくはあったものの、飲み足りないというのは事実だった。天枷を筆頭にみんな酔っぱらうのが早かったし、アルコール度数の低いものが多かったせいもあって、幾分か飲み足すのも悪くはないように思える。
杏ともうちょっと飲もうかとも思ったのだが、杏は杏でちびちびしか飲まず、すぐに天枷の様子を見に行ってしまったし。
そんなわけで俺は承諾の意を返した。
「……ここでか? 俺のベッドくらいしか空いてないけど」
「あ〜、そんなこと行って私をベッドに引きずり込む気でしょお?
ああ、そうして私はこの旅行で、義之くんと共に大人の階段を……」
「寝るぞ。おやすみ」
「ああ! うそうそ、冗談だって!
ここだとほら、杉並くんも渉くんも寝たふりして話聞いたりしそうじゃない。フロアの休憩所でどうかな?」
何気にひどいことを言っている気もするが、杉並はそもそも寝てるかどうかも怪しいし、渉は恋愛話なんかは息を殺して盗み聞きしそうではある。
茜とそういう話になるかどうかも怪しいもんだが。
「あそこか……。ま、いいんじゃないか、今の時間に人が居るはずないだろうし。
その格好で行く気か?」
「おかしいかな?」
おかしいっつーか、目のやり場に困る。
俺たちは身内だからいいものの、何も知らない宿泊客がもし来たら驚くだろうが。
それに寒いだろうし。
それを指摘すると、茜は一旦部屋に戻って上着を取ってくると言うので、俺は酒を持って先に休憩所へ行くことにした。
ま、すぐに茜も追い付いてきたが。
○ ○ ○
案の定、暖房の切れている休憩所は寒々としていた。
電灯も切られていたので、必要最低限の明かりのスイッチだけつけている。やや薄暗いが仕方ない。
「義之くぅ〜ん」
「気色悪い声を出すなよ……。
っつか近い、近いから!」
「うっわ、そこまでドン引きされると流石に凹む……」
ウソこけ。
酔っているのかどうかは分からんが、余りに余ったバナナリキュール――天枷が酔うのが予想外に早かったからな――を飲み始めた途端、茜が妙に絡んできた。
対面に座っていたのに寒い寒いと言って隣にくっついてくるし、気色悪い声は出すし、おまけに手を握ってきたり。
ほんとにキャバクラで働いてたんじゃないだろうな?
「うわうわ、義之くん、お酒入ると容赦ないね」
「元からだろ」
そう言って次の缶を開ける。プシッと小気味良い音が響いた。
「……まあいいけどぉ。
それよりどうだった、このスキー旅行。楽しかった?」
「過去形にするにはまだ早いんじゃないのか?
ま、楽しんでるよ。ありそうでなかったもんな、こんなこと。去年はみんなクラス違ったし」
「うん、それなら良かった」
茜に、杏に、小恋、ななか、天枷、杉並、渉。
ななかと天枷以外でなら今までありそうなものだったのに、こうしてみんな集まって旅行した記憶は修学旅行の他にはない。
もっとも、三が日はいつもあの二人と過ごしていたから、この時期にないのは当然なのだが。
ぐいっとリキュールを腹へ流し込むと、身体が中からも冷やされていった。
休憩室の寒さと相まって、なんだか変な感覚だ。アルコールで身体は火照っているのに、冷たさが拭えないような、不思議な感じ。
それでも厚めの上着を持ってきた俺とは違い、おまけ程度の上着しか着てこなかった茜はなお寒そうだった。
ぐいぐいと身体を押しつけてくるのは、不埒な考えがあるだけでなく、事実寒いのだろう。……もっと暖かい格好してくれば良かったのに。
ぐいぐい。ぐいぐい。
「……なんだよ?」
「んもう、女の子が隣で寒そうにしてるんだよ?
ここは『着なよ』とか言って、さりげなく上着をかけてあげたりする場面じゃない」
「いや、俺だって寒いし」
「あうう……義之くんのいぢわる」
悪いが、これは俺のいじわるというより茜の自業自得だろう。
意地が悪いのは認めるが。それにしたって、杉並や杏の意地の悪さに比べればすっぽんみたいなもんだ。
「寒いなら戻るか? 風邪引いても困るだろ」
「……」
「茜?」
「だめかな、上着……」
茜は顔を伏せて、じっと手の中のアルミ缶を見つめていた。
長くて黒い睫毛とコントラストに配置された白い頬は、お酒で赤く火照っている。暗い照明のせいか。その横顔は、とびきりの美人のように見えて。
その憂いのある表情に、どうしようもなく心が揺られた。
冷たい空気の中。
ぼうっとその顔を眺めていると、綺麗な唇から言葉が漏れてきた。
「今日が最後なんだ。私も、小恋ちゃんも」
その自嘲気味な声に、思わず聞き返す。
「何の話だ?」
「ずるいよね。背中を押してあげながら、ぎりぎりになるとこうして未練たらしくさ。
……うん、でも、今日で最後だから」
「だから、最後って何が――」
「明日になれば、分かるよ。
ああでも、義之くんは気付かないかなあ」
含みのある、どことなく寂しげな笑み。
こんな表情をする茜を、少なくとも俺は今まで見たことがない。
「酒が入ってナイーブになったか?
なんか、茜らしくないぞ」
「違うよ。お酒が入ってないと、私が真面目なこと言っても、みんな冗談だって受け取るんだもん。
しらふの時にこんな話をしたら、義之くんだって冗談だと思うでしょ?」
「……」
まあ、そうかもしれない。
ただそれは俺たちの問題というより、オオカミ少年よろしく、茜自身がそういった発言を常にしまくってるからだと思う。
ということは、そうか、わざわざお酒を飲みたいなどと言ったのは――。
「分かったよ。ただ、上着は俺も寒いから勘弁してくれ。
よ……っ」
「うわ……っとと。
あはは、義之くん、強引だねえ」
「茶化すなよな。お前が言ったんだからさあ」
肩を掴んで引き寄せた茜の身体は、思った以上に冷えていた。身体が密着したときは、思わずこちらが震えてしまったくらいに。
王様ゲームの肩揉みのときより、ずっと近い距離。あのときより少しだけ酒臭いけれど。シャンプーの匂いが消えていることすら、計算づくな気さえした。
そのまましばしの静寂。段々と茜の身体も暖まってきた。
茜に抱え込まれている右腕はどうしようもないので、余ってる左手で口が開いたままのリキュールを一口。
動く度に茜の柔らかい身体と俺の身体が擦れてしまって、ちょっとばかし変な気分にもなる。
「で、何の話だ?」
「義之くんがモテモテだって話」
「はあ?」
「あはは」
茜は一つ笑うと、全体重を俺に預けてきた。
重い、なんて言おうものなら何を言われるものか。でもやっぱり、見た目通り軽々というわけにはいかなかった。
特に反発するでもなく、俺はそのままどこか寂しそうな背中を受け止める。長くて綺麗な髪を除けると、淡く火照った茜の頬がすぐ近くにあった。
「ねえ、義之くん。
例えばさ、付き合ってもいつか別れることが分かりきってるのに、相手が好きで好きで堪らないとき、義之くんだったらどうする?」
例え話の他人は自分、とはよく言ったものだと思う。
相手はさて、誰のことなんだか。
「俺は告白するね。そもそも別れることが分かりきってる、って断定が気に入らない」
「それはあ、だからその……ほら、例えばの話だもん。
未来が読める能力とか、そういうのでもいいから」
「もっと上手く例えろよ……。
まあそれでも、俺だったら告白すると思うぞ。別れが待っていても、その選択に後悔をしないなら」
どうしてだろう、その状況がすんなりと想像できて、俺が出すだろう答えもすぐに浮かんだ。
その想像は、相手も自分を好いてくれているという、とっても都合のいいものだったけれど。互いが納得の上でその選択肢を選び、全力でそれを回避しようとして、それでも別れがやってくるのならば、俺はきっとそれを受け入れる。
言い終えると、頬が擦れ合うくらいに近い茜の顔が、俺の方を向いて呆然としていた。
「なんだよ?」
「そんなに真剣に答えてもらえると思わなかったから……」
「……殴るぞ?」
「あはは、ごめんごめん。
でもそうだよねえ、義之くんならそう言うかなって思った」
なら聞かなきゃいいのに、と思うのは俺が男だからだろうか。
分かりきってることも聞きたがるという感覚は、俺にはよく分からない。大した話でもないわけだし。
茜は顔を前方に戻すと、寒そうに両手をテーブルへと伸ばし、飲みかけの缶に口つけた。
ぐびぐびと飲み込み、ぷはあ、と大仰に息を吐く。
「小恋ちゃんが来なかったのは、この暖かさを知ってたからなんだねえ。
ずっとこうしていたいと思っちゃうから」
両手で空き缶をくるくると弄びながら、全身をゆらゆらと小刻みに動かす茜。
身体を押しつけてくるのは、下卑た誘惑ではなく、純粋に暖かみを求める小動物のようだった。無意識に抱き留めてしまう。
「あはは。そうされると、ますます離れがたいけど。
……今なら押し倒しても、不可抗力で済んじゃうよ? 据え膳食わぬは?」
「高楊枝で結構。
だいたい、酔った勢い――じゃないか。いや、なんでもない。
とにかく……」
どうしたものかと思案していると、ぼおん、ぼおん、と鐘の音。
壁面にかけられたアンティークな時計が、その短針と長針をぴったりと合わせていた。
「あーあ、鳴っちゃった」
瞬間、茜が上着と俺の右腕を離して立ち上がった。
暖かさが一転、滑り込んだ寒風に身が震える。
「……ガラスの靴は、置いていかないよ?」
「置いていきたければ置いていけ。ただし、そのまま倉庫に仕舞われるぞ」
「残念。私、いま、スリッパだから」
無理に笑みを作り、茜は俺から離れていった。
その目が赤く見えたのは、蝋燭の火のように薄暗い照明のせいだろう。あるいは酔いが回ったか。
それともあれか、昨日からはしゃぎすぎて寝不足とか。
……嫌になる。
「じゃあ、ごめん、私、先戻るから。
片付け、お願い」
「分かった。さっさと寝てろ。
お互い寝ぼけてた、そうなんだろ?」
「……うん。私は義之くんほど、強くないから」
「よく言うよ」
俺はわがままで、自己中心的で、自分勝手なだけだ。
相手を思いやる才能と努力に関しては、茜の足下にも及ばないさ、きっと。今夜のこれは、その抑圧の限界だ。
それでもこれで留まるのは……いや、これは俺が言える立場じゃない。
「おやすみ、でいいのか?」
「ううん。また明日、がいいな。
もう今日だけどね。あはは」
「そうか、じゃあ――」
手元にあったリキュールを一気に飲み干して、テーブルに置いた。
それが合図。
「また、明日」
「また、明日」
遠ざかっていくスリッパの音を聞きながら。
俺はしばらく、一人で酒を飲み続けていた。
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