Midnight Tune

[Angel Beats! short story]
 冗談交じりにこの状況を例えるとするなら、それはつまり「自分の恥をダシにして笑いを取られた状況のまま、世界が止まってしまっている」ということにでもなるのかもしれない。
 肺の奥にたまった空気を吐き出しながら、俺はそんなことを漠然と考えていた。

「はぁー……っ」

 頭の上には濡れタオル。といっても熱を出したわけではなく、ここが大浴場の浴槽であるというだけのことである。
 ……慌ただしい一日の終わり。文字通り人生の反転を経験して半日後。順応性の高くない俺はこの状況に訳も分からず流されたまま、こうして風呂になぞ浸かっていた。
 浴槽の縁に上半身を預けたままに、熱湯の心地よさでだらりと全身の力が抜けていく。それと同時、血液が身体中に駆け巡っていく感覚。これでもかというくらいに波打つ心臓の鼓動を意識しながら、ここが死後の世界であるという皮肉にわずかながらに笑みが漏れた。

 ゴクラク、ゴクラク。
 生憎ながら浴槽に蓮の花は浮いていない。建物に十字架だってついておらず、俺の頭の上に輪っかが浮かんでいるというわけでもない。
 けれど。

 ――死んだんだ。

 視界にかかる前髪を振り払いながら、高い高い天井へと目を向けた。吸い込まれていく白い湯気。靄を映し出す蛍光灯。けれど壁にも天井にも、その遥か向こうに広がっている夜空にさえ、ここが死後だと示しているものは何もない。

「死んだんだ、よな……」

 今度は意識して口に出す。

 覚えてる。朦朧とするような暑さ。記憶が吹き飛ぶくらいのショック。時間の感覚すらなくなった虚脱感と、意識せぬまま受け入れた   。酩酊する意識。混濁する記憶。大型トラック、迫ってきて、空――。

 確かにこうして身体は動くし、意識もある。それでもそれを覆すほどに俺の脳はその状況を克明に刻みつけていて、だから俺は本当に死んでしまったのだということを受け入れるのにさほどの時間はかからなかった。
 取り乱すこともない。死ぬ間際、刹那の時間、自分が死にゆくのだと分かっていたせいもある。これ以上ない実体験。だからこんなフィクションに疑問を抱くことすらないほどに、俺は完膚無きまでに死んでいた。

 死んだ。
 何もできず、何も掴めず、何のフォローもできないままに。

 俺という人間が死んだあの事故。報道くらいはされたろう。けれどそれは、想像するだに恐ろしい。
 だってそうだろう。不良青年の自業自得。同情されるのはそんなのを轢いてしまったトラックの運転手であって、轢かれた俺には唾がかかってもおかしくない。惨めな末路。理不尽とすら言えない死。

 そしてまた、そうだというのに、あるいはそうであるからこそか、こうしてこの世界で意識を取り戻したことに対する喜びもほとんどなかった。

「……ま、これじゃあなあ」

 努めて軽い口調の言葉を吐いて、視線を戻し周りを見回す。

 濃い湯気の向こう。顔も名前も知らない”同級生”たちが、各々浴場を利用していた。身体を洗って、湯船に浸かって。友達と笑い、肩を叩いて。吐き気がするほど人間らしく、気持ち悪いほど平凡なその暮らしぶり。間に壁を感じてしまうのは、彼らが人間ではないと分かったからというだけではない。

 普通の学校生活。ことさらに仕組まれたそれが俺の記憶と強烈なコントラストを描き出していて、ああ、ゆりっぺの言葉を借りるなら、それこそ神を憎みたくなるほどにそれは皮肉なことだった。何ごとも起こらない平穏な日常。理不尽の介入しない理想的な青春。そんな中、理不尽な死を抱えた人間がまわりに溶け込むことなんて、頼まれたってできやしない。違いすぎるんだ。それは意識の有無ではなくて、もっと別の次元にあるものが。

 ゆりっぺはこの世界を地獄だと言った。言い得て妙だとつくづく思う。死んでもなお凄惨な記憶に苛まれ続ける永遠の日々。俺だってあの唐突な死でそのまま普通に死んでいたなら、それはある意味でとても幸福なことだったろう。
 けれど”神”はそれを許さなかった。理不尽な死を与えてなお、まるでそれを改めて直視せよとでも言うかのように。

 ――理不尽な人生を強いたそいつに一発どぎついのを、いや何発もかましてやるのよ。

 可愛い顔に似合わない、呪詛のように吐かれたその言葉。それは俺にはない発想だった。
 けれど、うん、そう聞かされれば確かに賛同できる面もある。忌々しい理不尽な死への鬱憤は、神でも引きずり出さなければ到底晴れるものではない。”消える”という選択肢がありながらもあいつがこの世界に存在し続ける理由は、だからその一点に集約されている。あいつは生前の記憶という地獄の責め苦に苛まれながら、ただ居るかも分からない神への復讐を糧にこの世界に留まり続けているのだ。
 生き地獄。相変わらず皮肉の入ったそんな単語を思い浮かべる。

 でも、だからこそ俺はあいつが心配なんだ。

 この世界でゆりっぺと出会わないままだったら、きっと俺はそのまま消えていた。忌々しい記憶。後悔はある。悲哀もある。けれど、俺に神を恨むという発想は有り得なかった。せいぜいが夜になるたび、頭を抱えて独りベッドで暴れる程度なもの。だから、耐えられなくなればさっさと消えてしまっていたに違いない。それこそカレーで満腹になって消えるなんて、俺の人生の軽さにふさわしいってもんだろう。

 けれど、そうすることはできなくなった。
 勝ち気な瞳を思い出す。陰惨な記憶を抱えての幸せなんて有り得ないと言ったその口調を反芻する。憎しみの剣と鎧はどこかハリボテめいていて、独りのままではあの華奢な身体が破綻するのはそう遠くない、少なくとも俺にはそう見えてしまったから。

 ――お人好しだよなあ、俺もさ。

 惚れてるのかと問われれば、コンマ一秒で「違う」と即答できる自信がある。それでもこれは性分なんだ。ああいうやつは放っておけない。ああいうやつを独りにするほど、俺はそこまで死んじゃいない。
 だから手伝ってやろうと思った。神を殴り飛ばすという所業。それはゆりっぺの手伝いをただ純粋にしたいからというわけでもなく、ましてや神を殴りたいからでもなく、つまるところ、あの神をも射抜く強い視線が穏やかになる日を信じてというだけのことだけれど。

 ……想像する。あのきっつい表情が、か弱い普通の女の子のように笑みを浮かべる姿を。つり上がった目尻を下げて、きつい眉を緩やかにして、物腰もちょっとばかし柔らかくして。そうして色々いじるうち――――俺は想像の中でゆりっぺに屋上から落とされていた。
 つまりは失敗。人の顔で福笑いしてんじゃないわよ、という声が遠ざかり、俺は地面に激突エンド。まあ要するに、そのくらいには想像できない顔だったというわけである。

「けど、ま、それはそれで――……っ」

 そろそろ限界に近づいてきた熱さにゆっくり立ち上がる。と同時に言葉を呟きながら呆れたように笑おうとして、失敗。襲いかかってきたのは真夏のグラウンドのような蒸し暑さと、酩酊したかのような立ちくらみ。

「……クソッ」

 タオルでがしがしと顔を拭く。それでなんとか沸き上がってきた痛烈な吐き気を押し留めることに成功し、はあ、と溜息を一つ吐いて。
 結局俺は少しばかりの目眩を残したまま、大浴場を後にしたのだった。





       ○  ○  ○





「それじゃ、電気消すぜ?」
「うん、お願いするよ」

 ベッドの下から聞こえる声を確かめて、部屋の明かりを落とす。がさごそと布団にもぐる音が続いた後、すぐに辺りは静寂に包まれた。
 この学校に寮で酒盛りをするような馬鹿はいない。テレビもなければ飛行機もヘリコプターもない。耳を澄ませても蚊の飛ぶ音すら聞こえない夜。火照った身体はしばらく寝付けそうになくて、俺はベッドの下段に気を使いつつ一度は横たえた身体を少しばかり持ち上げた。

 暗い部屋。うっすら入る月明かりに視線を窓の外へとやると、広がっているのは何の変哲もない夜空だ。生きていたときと何ら変わらない。地の果てが見通せないことを除けば、星の配置なんかまでかつてと同じなのかとも思う。

 ――ゆりっぺのやつは、もう寝てんのかね。

 あの無駄に活発なやつのこと、さっさと寝て早寝早起きを実行してそうではあった。死んだというのに健康生活。しかもそれが神をどつきまわすためだっていうんだから色んな意味で手に負えない。

 けれどこの夜の静寂、独りでいるのは寂しかろうとも思う。
 ひとりで大丈夫だなんて嘘だ。孤独さえ愛し笑っていられるなんて大嘘だ。俺だってスポーツのチームワークだとか、そんなようなものを盲信するほど若くはない。でもだからといって、強い風の吹く崖に向かって、汗でシャツを張り付かせながらひとりで歩いていくことが、それが勇気のある行動だとは俺には到底思えない。

 ――あいつにも、それが分かる日が来るのだろうか。

 どんな生前だったのかは知らない。見てる限り、俺よりずっとろくでもない死に方だったんだとは思う。でもそうであるからこそ、ロマン”なんか”と言わなくなってくれて欲しい。忘却の反対は単独での抵抗なんかじゃ決してない。それが分からないままでは、俺のお節介の気は済まされない。

 ああ、だから俺は、あいつの心の整理を見届けるまでは――――

 暗い夜の閉じた思考、沸き上がる生前のフラッシュバックも俺の決意を覆すには至らない。発作のようなそれもしばらくすると落ち着いて、俺はそのまま起こしていた身体をベッドに再び沈めなおす。布団をかけておやすみなさい。死後はじめての睡眠に、どことなく不思議な心地を抱きつつ。

 ――おやすみ、ゆりっぺ。

 この世界で唯一の人間に対しそう呟いて、俺はゆっくり目を閉じる。
 ……明日の朝は、なぜか快適に起きられそうな気がした。



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