[Farewell to the Divergence]
5.
「……で? わざわざメールで呼び出して、今度は何しようっていうの?」
円卓会議、第……ええと、百三十二回。前もって告げていた予定時刻にラボメン全員が集合し、いざ俺が会議の開会宣言をしようとした矢先、紅莉栖が開口一番に言い放った台詞がそれだった。
連日の暑さも、前日に降った雨で少しばかりのお休みとなった昼下がり。俺はかねてより実施を企画していたイベントを執り行うべく、天気予報を見て昨日の夜にメールで召集をかけていた。ラボメンよ集え! 時刻は明日13:00! これは第一級指令である! ……確かそんな文面だった覚えがある。もちろん第二級や第三級はない。ご了承下さい。
「わざわざ呼ばなくても、みんなちゃんとラボに来るのにねー?」
「むしろ呼ばれると来たくなくなる罠」
「そこ、私語は慎め!」
いま現在、円卓を囲んでいるのは紅莉栖、まゆり、ダルに、俺を加えた計四人。いつも通りといえばいつも通りのメンバーだ。メールを送ったのもこいつらにだけで、だから確かにまゆりの言う通り、召集せずとも集まったことだろうと思う。
しかし、しかしだ。「久しくなかった召集メール」……そこに潜む好奇心と不安感は計り知れまい。イベントとは始まる前から楽しむべきものなのである。そういった細かい気配りは、フッ、ラボの象徴たるこの俺ならではと言えよう。つくづく己の才能が憎い。
「というわけで、本日のオペレーションは重要任務だ。失敗も許されない。それだけに、各員の士気も重要と言える」
「しき? ってなにかなー?」
「気にしないで、まゆり。岡部以外は誰も持ってないものよ」
「エロゲを中断させられてるのに士気も何もあったもんじゃないお」
「だー! 私語は慎めと言ったろう! 円卓会議の最中だぞ!」
「はいはい。いいから早く本題に入れ」
こ、この……! なぜ俺が議長役だというのに、紅莉栖に仕切られねばならんというのか……!
しかしまあ、俺とて暇ではないだ。遺憾ながら、こほん、と咳を一つ挟んで再び円卓に向き直る。
「本題の前に、まずはお前たちの士気を上げてやろうという話だ。やる気のないままでは困るだろう? だからここは一発、お前たちにやる気を促すために俺が奮発して――」
「からあげ!」
「岡部だし、またしょーもないガラクタに一票」
「二票目入れるお」
「アホかお前たちは! 俺が奮発して、新たな発明品を作ってきてやったと言っているのだ!」
「二票獲得おめでと岡部。はい、それじゃ解散」
「さて、また積みゲを崩す仕事が始まるお」
「からあげ〜……」
あああああああもう! こいつらは本当に!
未来ガジェットだぞ! このラボの本来の目的であるものを、全て自費で、俺が三日三晩かけて、全て自費で、お前たちのために、全て自費で作ってきてやったというのに! 大事なことなので三回言いました!
「ええい、散るな散るな! まだ本題ではないし、せめて興味くらい示せ!」
「えー……えっと、じゃあね、じゃあね、それって食べれるの?」
「食い物ではない! というかさっき昼飯食ったばかりだろう!?」
「えへへー、からあげとバナナは別腹なのです」
ぽやぽやと笑うまゆりに、思わず俺の膝が屈しかける。ゲルバナさえ躊躇なく食ってしまうこの胃袋時空はいまだに理解しきれない。
けれどまゆりの突拍子のない質問で気が抜けたか、ダルも紅莉栖も溜息を吐いて再び椅子に座り直した。諦めのような表情のまま、再びこちらに目線を向けてくる。
「で? 聞いてあげるけど、何作ったっていうのよ」
「よくぞ聞いた助手よ! 俺が作ってきたのはこの――」
わざわざ仕込みで白衣の胸ポケットに入れておいたそれを、流れるような動作(注:俺主観)で取り出して掲げてみせる。カメラは俺の手元にズームアップ、背景はきらきらと光り、耳慣れたSEにかぶせるようにだみ声が響き渡るイメージを脳内が支配した。ご了承下さい。
「それはそう、この――『時を計る機械』である!」
「わ、時計だー」
「時計ね」
「時計だお」
「うるさい! とけいとけい言うな! 未来ガジェット『時を計る機械』だ!」
反論しながらことり、と円卓にその時計――ではなかった、『時を計る機械』を置く。サイズは片手で持てる程度で、一般に売られているペンケースと同程度のサイズ。その長方形の形状からも分かるようにデジタル時計である。……じゃなかった、デジタル式の『時を計る機械』である。
「時間もあってるけど……いや、正直だから何としか言いようがないわよこれ」
「フッ、助手はまだまだ甘いな。なあダルよ、お前なら分かるだろう? このデジタル表示が何なのかを!」
「え、何なのかって、ただのデジタルじゃ――」
ダルが無造作に『時を計る機械』を掴み、ひょいと持ち上げて数字を眺める。秒単位で時を刻むその姿は淡いオレンジ色で、ダルはすぐに目を丸くした。
「ちょっ、これニキシー管? マジで?」
「フゥーハハハ! さすがだダル! そう、それは紛れもなくニキシー管だ。正真正銘、本物のな!」
「ニキシー管……? それ、珍しいの?」
「全世界で生産終了してて、いまじゃアキバでも手に入らないくらいレトロなものだお。うっは! オカリン、正直すまんかった。これガチで萌える」
「フッ、分かればいい」
ダルの無機物萌えは本物である。どういう反応を示すか確証はなかったが、しかし、やはりダルはダルだった。
ためつすがめつしていたダルから、今度はそれが紅莉栖の手へ。珍しいガジェット(文字通り)だと知って好奇心が沸くあたり、紅莉栖もやはり紅莉栖である。裏から見たり基盤を見たりして興味深く眺めているさまは、まさに「観察」という言葉がぴったりだった。
「でもオカリン、これ結構したんじゃねーの? 輸入?」
「フッ、甘いぞダル。俺にかかればこの程度……」
「あー、オカリン、だからコミマのときから金欠続きだったんだねー。もう、言ってくれればよかったのに」
クッ……まゆり、それはフォローのようでフォローでないぞ……。
それに金欠の主原因はまゆりの食い放題を奢ったからであって、ニキシー管はあまり関係がない。そもそもこのニキシー管、半分は元から手元にあったものである。
――そう、つまりはあの「電話レンジ(仮)」についていたものだ。
「まゆしぃはそのにきしー? 管ってよくわからないけど、色はとっても綺麗だねー」
「そうね。ノスタルジックな色合いだと思うわ」
充分堪能した紅莉栖から『時を計る機械』がまゆりへ。そこから再び俺の所へと戻り、俺はそのガジェットを再び大仰に持ち直して見せた。
「ククッ、驚いているところ申し訳ないが、この『時を計る機械』はこれだけではない! その名の通り時を計るほかに、もう一つの重大な能力が備わっているのだ!」
「ああ、その横にあるへこみっしょ? ちょっと指だと押せなかったから気になってたんだけど」
「どうせそれが本命のヘンテコ機能なんでしょ。そこで終わっておけば、センスの良いデジタル時計で済んだものを」
「時計と言うなと言っている! 『時を計る機械』だ!」
パチッと底面をスライドして、現れた細い穴にこれまた懐から取り出したシャープペンシルの先を差し込む。ゴムのボタンを押し込めば操作完了だ。
単純明快。八本あるニキシー管の数値が、ルーレットのような変化を経て現在時刻から全く別の文字列へとその姿を変える。
示されている数値は――
「ねえオカリン、その数字ってなにかなー?」
時間とは違い、一切数値の変わらないジョークグッズのようなもの。俺にとってもそうなのだから、他の人間にとってはジョークですらないだろうとも思う。
だが、それでいいのだ。
「これはな、まゆり……そうだな、お守りみたいなものなんだ。この世界のな」
現れた数値は、1.048596。
――これが、運命石の扉の選択だ。
さて。
新たなる未来ガジェットでラボメン連中の士気を高めた俺は、意気揚々と本日のメイン・オペレーションへと話の議題を移した。ちなみに当のダイバー――じゃなかった、『時を計る機械』はまゆりの手によってブラウン管テレビの上に鎮座させられている。「時計はそこらじゅうにあるからねー」とか言って表示は1.048596のままだが、「テレビに時刻表示出るしね」「むしろランダム文字列に萌える」とのことで紅莉栖もダルもあまり異存はないらしい。よくわからん奴らである。
「それでは士気も高まったところで本題だ。貴様ら、外を見てみろ!」
「外? 別に何もないけど」
「そうではない! この天気! この気温! 絶好のサイクリング日和だと思わないか!?」
「……はあ?」
「はあ? でもない! 絶好のサイクリング日和だと言っている!」
マヌケ面の紅莉栖でも分かるように、ラボの窓、かかっているブラインドを一気に引き上げる。ついでに窓も開けると、強い日差しとともに、心地よい風がぶわっとラボの中へと入り込んできた。
「え、オカリンどうしたん? サイクリングのアニメでも見た?」
「お前と一緒にするな! そうではなく、お前たちの日頃の運動不足っぷりを解消するチャンスだと言っているのだ!」
「オカリンが運動したがるなんて、珍しいねー。でもでも、みんなでサイクリングっていうの、まゆしぃはすっごく面白そうだと思うなー」
「フッ、まゆりはよく分かっているようだな」
情けない話だが、このラボの中ではまゆりが一番体力がある。スポーツに熱心に取り組んでいるというわけではなく、単に身体を動かすことが好きなのだろう。日がな一日椅子に座ってエロゲやったり洋書読んだりしているだけの連中とは、根本的にデキが違う。
ああいや、もちろんラボの象徴たる俺は別にいいのだ。何がいいのかは定かではないが。
「っていうか、運動不足解消するだけなら歩くだけでもいいじゃん。そもそも自転車がなくね?」
「甘いなダル。既にレンタサイクルは手配済みだ!」
そのための前日連絡だ。ちなみにレンタサイクルはだいたい一日五百円、高くても千円出せば借りられて、思っていたよりは安かった。あとは予約した自転車を取りに行くだけである。
もちろん言うまでもなく、これらは全て俺のポケットマネーからの支出となっていた。ラボメンどもは俺を褒め称えるとともに、ただでさえ金欠だった俺に明日からコンビニ弁当のおかずを少し分けてくれると嬉しいところである。
「ほんっとに、相変わらず無駄に行動力だけはあるのな」
「褒め言葉として受け取っておこう。では行くぞ諸君、三十秒で支度しろ!」
「無茶振りキタコレ。……っていうか、えっ、今から行くん?」
「当たり前だろう! これ以上のんびりしてたら帰りが何時になるか分からんぞ!」
「はあ、あんたのことだから、どうせ今すぐ出発とか言うとは思ったけど。まだ目的地も聞いてない件について」
「まゆしぃは走りながら考えるのもいいと思うなー。ふらふらーって、行きたい方に走るとね、とっても気持ちがいいのです」
「クククッ、残念ながら目的地はすでに決まっているのだ。時間的猶予、ラボメンの体力、道路状況、それらを総合的に勘案した結果――」
これまたあらかじめ仕込んでいた白衣の懐から、ばっと地図を取り出して作戦会議中の司令官さながらにテーブルへと叩き付ける。このラボがある末広町駅あたりについた印から、つつーっと一本の線が有明方面へと道路沿いに走っていた。
そう、つまり。
「――目的地は、東京ビッグサイトである!」
○ ○ ○
「ふう、ひい、や、やっと、見えて……きたお……」
秋葉原を出て二時間弱。ようやく目的の建造物がはっきりと見えてきたのは、インドア組が揃ってへとへとになってからのことだった。東京ビッグサイト。東京国際展示場とも呼ばれるそこは、つい先日、夏のコミマが行われた会場だ。
「はあ、……もう、どうして、こんな、遠い……」
「えへへー、ダルくんもクリスちゃんも頑張れー、もうちょっとだよー」
先頭を走るのはまゆりだ。途中までは道順を『知っていた』俺が先導していたのだが、晴海大橋での休憩からはその役目を譲っている。
疲れたから、というのも理由の一つだが、やはりまゆりには自由に走ってもらいたかったのだ。先頭で、誰に気兼ねすることもなく。もちろんまゆりは俺たちを置いていくような走り方はしなかったけれど、楽しそうに先頭を走るその走りっぷりは、見ているだけでこちらも気分がよくなってくるものだった。
「それより、はあ、……岡部が、平然としてるのが、気にくわない、んだけど」
「俺だって余裕はないがな。それ以上にお前らが軟弱すぎるんだろう」
「軟弱で結構……。私は肉体じゃなくて、はあ、ブレインで食べていくわ……」
「次曲がったら止まるよー。トゥットゥルー☆」
先頭のまゆりが十字路を左折する。ダルと紅莉栖は自転車を漕ぐのに必死で気付いていないようだったが、ここはもう夏コミのとき待機列として既に通ったことのある場所だ。ひいこら言いながらのダル、そしてダルとそう変わらぬ疲労を見せる紅莉栖が曲がったのを確認して、しんがりの俺が後に続く。
そうして曲がった先は、ビッグサイトへと続く巨大なメインストリートだ。
「はい、到着でーす! お疲れさま〜」
「ふう、ひいっ、やっと、着いた……けど……サイクリングって、レベルじゃ、ねーぞ……」
見慣れた景色で止まると同時、ダルがふらふらっと自転車を降りて近くの植木の根元に背中を預けてへたり込んだ。何かを求めるように手を伸ばしたので、リュックからペットボトルの水を放り投げてやる。するとすぐさま、砂漠帰りの遭難者のごとくすごい勢いで飲み始めた。ダルがコーラ以外の飲み物でこんなにいい飲みっぷりを見せたのは初めてな気がする。
「はあっ……橋田じゃないけど、もう、ほんと疲れた……」
「どっちも運動不足、それと前半で調子に乗ったせいだ。ペース配分がうまくいっていればそんなに疲れることはない」
「反省するわ。……けど、……はあ、なんであんたはペース配分なんか知ってるのよ。自転車で来たことあるの?」
「さあな。分からん」
「分からんって……」
自転車を止め、紅莉栖とともに花壇のふちに腰掛ける。よほど暑いのか、紅莉栖はシャツの第一ボタンを開けて、トレードマークのパーカーの袖も折り上げていた。普段は晒さない細くて白い腕が少しばかり汗ばんでいるのが目に入る。
「……ふう、やっと落ち着いてきた。これでまた帰りもあると思うと、かなりハードね……」
「それだけ運動していないということだろう。まゆりを見てみろ、ぴんぴんしているぞ」
「相変わらず信じられない……ほんと、見た目はそんなじゃないのに、どこにあんな体力隠してるのかしら……」
「んー? 大丈夫、クリスちゃん?」
「うん、まあ、なんとか。まだまだ休憩は欲しいけどね」
言って、ふー、と大きく息を吐く紅莉栖。対してまゆりは「ゆっくり休んだ方がいいよー」と言いながら、今度は自転車のカゴから新しいペットボトルを取り出してこちらへと差し出してきた。
「悪いな、まゆり」
「クリスちゃんはー?」
「私はまだ、休憩したときのがあるから。もう少し落ち着いたら飲むわ」
「そうー? でも、えへへー、やっぱりみんなで運動するのって楽しいよねー。たまにはこういうのもいいなーって、思うなー」
「ダルや紅莉栖の様子を見るに、次がいつになるかは分からないけどな」
笑いながら、ペットボトルを開けてぐいっと喉へ流し込む。まだ若干の冷たさが残る水はそれなりに心地よく、俺だってダルのことを言えやしない。ペース配分できるとはいえ、運動不足は俺も変わらないのだ。
唯一運動不足でなさそうなまゆりは久々に運動できたことが嬉しいのか何なのか、走ってきたばかりだというのに疲れも見せず、俺たちに声をかけた後ですぐさま誰もいないこの広い通りをくるくると散策しに行ってしまった。といってもどこかに消えたわけではなく、俺たちの目の届く範囲でぷらぷらと歩いたり走ったりしているだけ。気分的には犬の放し飼いに近い。
「しかし、こうして見るとほんっと広いわね。コミマのときはあんなに狭く感じたのに」
「確かにそうだな。しかもこれが全部人で埋まって、更に列が隣駅まで続いてたわけだ」
「コミマ……恐ろしい子……」
ビッグサイトとは反対側、駅の方へと視線を送る。メインストリートだけでも広大な敷地だというのに、そこから曲がってずーっと列が続いていたというのだから、その異常さは想像するだに恐ろしい。今この視界全てが人で埋まったらどれだけの人数になるのか。そんな妄想めいた異常事態が、実際にこの場で行われていたのだから。
「あ、そういえば」
そうして誰もいない空間からコミマの脅威に思いを馳せていると、紅莉栖が思い出したようにはっと声を上げる。
「どうした?」
「いや、その……結局答えてもらってないなって。どうしてビッグサイトが目的地なのか。というかそもそも、どうしてサイクリングなんか思いついたのよ」
「ああ……」
ペットボトルの水をさらに飲み込んで、言葉に詰まったまま空を見上げる。
「なに? 本当に天気が良かったから思いつきってわけ? それにしては準備が良かったけど」
「……思いつき、というのは本当だ。特に他意があるわけではない。ただ――」
「ただ?」
促され、絶対に落とさないようにとポケットの奥深くに沈めておいたものを取り出す。金属特有の感触。さらに青い空から降り注ぐ太陽光が強く反射しているそれは、ラボメン全員へと配ったラボメンバッジだ。
「持ってきたの? 珍しい、あれだけ失くすなって言ってたものを持ち出すなんて」
「まあな。だが、これは俺のものではない」
逆光のまま空へとかざし、暗くなった盤面を読み取る。八人分の頭文字と、去年の西暦である2010の数字。歯車とそれを貫く折り返し込みの矢印はなかなか凝ったデザインで、作った人間のセンスの良さが窺い知れた。……もっとも、誰が始めにこのデザインを思いついたのかは、今となってはもう分からないが。
俺が太陽を隠すようにしてバッジを眺めていると、隣の紅莉栖も横からそれをのぞき込んできた。長い髪がこちらの頬へとかかってくる。近い。
「これ、結局八人目が誰かは教えてくれないの?」
「ああ。だが、いずれ必ず分かる。必ずな」
もしかしたら八人目のAは、Aという名前でなくなっているかもしれない。それどころか、俺の知っている「彼女」は生まれてこない可能性だってある。未来が確定していない現状、その確率の方が大きいとすら言えるだろう。
けれど俺はそうは思いたくなかったし、きっとまた八人目はこの「A」――阿万音鈴羽になるだろうという妙な確信がどこかにあった。もちろん本名は橋田鈴だってなんだっていい。それでも少なくとも今の俺にとっては、あいつは阿万音鈴羽なのだ。
まだひいこら息を整えている途中のダルを見ながら、消えていった世界線であいつが娘に投げかけていた真摯な言葉を思い出す。だからきっと、大丈夫だ。
「……そう。なんとなく、読めたかも」
紅莉栖がバッジから視線を外しつつ、そう呟いて立ち上がる。自分の自転車から飲みかけのペットボトルを取り出していた。
「聞かれてもこれ以上は答えんぞ?」
「分かってる。私も読めたというよりは……なんだろう、思いだしかけてる、って表現が近いのかな。……うん、たぶん、自転車は五台あったんじゃないかって思ってる」
「……さあ、どうなんだろうな」
俺は曖昧に返答して、バッジを再びポケットの奥へとしまいこんだ。
リーディング・シュタイナーは健在だ。けれど俺にとってもこのサイクリングは実行した覚えはなくて、けれどなんとなく経験したことはあるような気がどこかでしていた。始めから世界線の変動を観測できていた俺にとっては初めての体験。それでもその思い出はどこか確信めいていて、だから俺はサイクリングを企画した。
別に思い出そうとしたからというわけじゃない。いわば単なる思いつき。だから、そこに特に意味はないのだ。
「オカリーン、クリスちゃーん、ダルくーん。ねえねえ、落ち着いたら近くのファミレスに行って休まないー? まゆしぃはお腹がすいちゃったのです」
紅莉栖に続いて立ち上がったところで、いつの間にかこっちに近づいてきていたまゆりからそう声がかかる。あまりにまゆりらしい言葉に、紅莉栖とともに苦笑い。ダルは「うは、冷房フラグキタ! これで勝つる!」とか言っていて、バテバテが一転、ファミレスまでは頑張る気満々となっていた。
まあ、いいだろう。さすがにもう奢ってやるほどの金銭的余裕はないけれど、どうせすぐに帰り道へと漕ぎ出すわけにもいかないのだ、腹ごしらえも悪くない。飲んでいたペットボトルを自転車のホルダーへと差し込んで、出発の準備を完了させる。
そして俺は自転車のスタンドを蹴り、
『おい、いつまでビッグサイトに感動してるんだ。行くぞ』
『あ、ごめんごめん。岡部倫太郎、すぐ行くよ』
そんなやりとりの後、丁寧に磨かれたMTBに乗り込むラボメンナンバー008の姿を現実のように幻視した。
おそらくは最初で最後となるだろう、ラボからビッグサイトまでのサイクリング。もしもたとえもう一度企画したとて、それは確実に今日ではない「二回目の」サイクリングとなるはずだ。だから今日この日の、ラボ初のサイクリングというのはただこの一回のみしか有り得ない。
それは言うまでもなく当然のこと。けれどその「当然」にこれ以上ない楽しみを覚えながら、ファミレスへと向かったまゆりを追って俺は自転車を再び漕ぎ出したのだった。
――後ろから鈴羽がついてきているような感覚を、頭の隅に覚えながら。
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