[Farewell to the Divergence]
4.
秋葉原から車で一時間弱。
都内近郊、フェイリスのパパさんが秋葉原とともに所有していたという土地に、ひっそりとそのお墓は佇んでいた。
それはいわゆる墓地や霊園というよりは、まわりを場違いなくらいの緑に囲まれた小さな公園とでもいえるような場所だった。木々の合間から見える空に、都会の喧噪が遠くなったと錯覚する。見渡せばどこか社寺仏閣がありそうな雰囲気でもあり、周辺とのコントラストとその風情はどことなく秋葉原にある柳林神社を俺に思い起こさせた。
「ちょっとこれ……凄いんじゃない?」
俺に続いて車から降りた(ちなみに当然のように黒塗りの高級車だ)紅莉栖が、俺と同じくその光景を見ながら呟く。米国に留学しようが親が元研究者だろうが、こいつも根のスケールは庶民派だ。口をあんぐり、とはいかぬまでも、それに近い表情で予想外の「お墓」のレベルに驚いているようだった。
……要するに、である。
俺たちはフェイリスとともに、今日は彼女のパパさんの墓参りへとやって来たのだった。
「凶真、クーニャン。どしたのニャ? パパのお墓はこっちだニャ。黒木!」
「はい、ご案内させていただきます」
フェイリスの言葉に応じて、ここまで車を運転してくれた執事の黒木さんが俺たちを奥へと案内する。
一等地とは言えぬまでも、それでも交通の便は充分な場所にこれだけの土地。聞いてはいたものの、実際目の当たりにするとコレは驚き以外のなにものでもなかった。うちの家の代々の墓や、あるいはまゆりの祖母の墓だってそうだが、ああいう普通の墓地にある墓とは根本的に何かが違う。あれが墓ならこちらは古墳かピラミッドだ。
綺麗に切りそろえられた木々の合間を通り、まるで公園の散歩がごとく歩道を並んで歩いていく。分かれ道の先には管理棟や別荘といった類の建物もいくつか見受けられて、ますます陵墓めいているなと感じてしまったのも致し方ない事だろう。管理者付きの墓。それでも使用人の類が出てこないのは、フェイリスなりの配慮なのかもしれない。
「フェイリスは毎年来ているのか?」
「当然ニャ。もっとも、黒木以外の誰かと来るのは今日が初めてだけどニャ」
「……悪いな、押しかけたみたいで」
「それは言いっこなしって言ったニャ。それに、初めて一緒に来てくれたのが凶真とクーニャンで良かったとさえ思ってるのニャン」
だから申し訳なく思う必要なんてどこにもないニャン、と続けて、ぴこぴこと猫耳を揺らしながら先へと進んで行くフェイリス。本人は多くは語らないが、それはつまりフェイリスにとって「他の誰か」が今まで居なかったということなのだろう。
でなければ、たった一人ですべてをこなし、広いビルの最上階で執事と二人だけで暮らしているなんて、そんなことがあっていいはずがない。
「こっちニャー」
けれど猫娘はいつものように飄々とした笑みを浮かべながら、気にした風もなく執事さんとともに俺たちを先導していく。だから俺も、それ以上何かを言いはしなかった。俺より察しの良い紅莉栖がさっきから黙ってやりとりと見ているだけなのも、きっとそういうことだ。
「お……?」
そうしてしばらく歩き、ほどなくして木々の間から視界が開ける。ぽっかりと空いたその空間。少しばかり土が持ってある丘の上に、やや大きめの墓石が空に向かって聳えていた。
自然に囲まれ、空を望む。不慮の事故だったパパさんにこうした配慮をしたのは誰なのか。考えるまでもないことだった。
「それでは、ご用があればお呼び下さい」
そうして案内はここまでと見て、執事が広場の入り口手前まで下がる。フェイリスが指示したわけでもないのにこの配慮、相変わらずできた執事とその主である。
「ちょっと。おい、岡部」
「ん? ……あ、ああ」
そのままぼけっとしていたら紅莉栖に肘で小突かれ、俺はようやく足元に置かれている桶と柄杓に意識が向いた。明らかな力仕事。よもやこの面子で紅莉栖やフェイリスにそれをさせるわけにもいかず、さっさと桶を持ち上げる。
「なあフェイリスよ、あそこにある水道で水を汲めばいいんだな?」
「そうニャけど……もしかして汲んできてくれるのかニャ? 凶真、ありがとニャー」
「フェイリスさん、火はどこに?」
「ああ、それなら黒木が持ってきた荷物の中にマッチと蝋燭が入ってるはずニャ。あ、それとそこの新聞紙とはさみ取ってくれるかニャ?」
「新聞紙……なんかこれだけ妙に庶民的ね」
「様式美というものがあるニャ」
俺が力仕事を請け負う一方、残る二人はぱっぱと花を取り替えて線香の準備をし始めた。いつ見てもこういうてきぱきとした動作はこの二人に本当によく似合う。自然となされる役割分担。花を切りそろえ、墓前を軽く掃除して。古い花は新聞紙にくるみ脇へとどかす。これだけの施設だ、フェイリス以外にも整備をしてくれる人はいるだろうに、手ずからやっているのはなんともフェイリスらしいとも思えた。
「よし、それじゃ桶はここに置いておくぞ」
「助かるニャー」
五リットル近い水をようやく運び終え、柄杓を水へと浸す。お墓の手入れはもうしばらくかかりそうだった。
――きっと、覚えてるさ。
今でも俺の胸に刻まれているそれは、Dメールとともに世界線の向こうへと消えていった俺自身の言葉だ。たとえ世界線が変わっても、フェイリスはパパのことをきっと覚えている。泣き腫らしたその顔に向かって慰め混じりに告げた嘘は、俺にとっての決意でもあった。
願望を込めたわけではない。あれは間違いなく俺の意志で吐かれた嘘だ。世界が消えてしまうなら、せめて最期くらいは優しい嘘で。そうするべきだったのかどうかは今になっても分からない。それでもきっと、俺は何度だって同じ行動を選択するだろうとも思う。
だから、俺はこうしてここに来た。
「――……」
声にならぬ謝罪を心の中で呟いて、俺は墓前に手を合わせ瞳を閉じた。不作法なんて承知の上。だが、偲ぶ気持ちはフェイリスにだって負けちゃあいない。
フェイリスのパパ。
彼はいま、このお墓で永久の眠りについていた。
けれど、その享年より十年経ったあとの姿を俺はよく知っている。その人となりを知っている。溺愛した娘との良好な関係を今は俺だけが知っている。優しそうで厳かで。初対面だった俺にすらいいようにしてくれて、ああ、この人なら鈴羽が信用するわけだと、心底思えるほどにできた人物だった。
でも、あの人は十年以上も前に死んでしまった。飛行機事故、唯一の犠牲者。そういうことになっているし、事実ここではそうなのだろう。当時まだガキだった岡部倫太郎とは会ってすらいない。だが、だからといって消えてしまった――もとい「消してしまった」あの現実を、無遠慮に納得できるほど俺の心は強くなかった。
「そう。フェイリスさんは好きだったんだ、お父様のこと」
「当然ニャ。それに、パパはフェイリスの自慢でもあったのニャ」
「自慢、か……。でも、こうして年月を経てもお墓参りに来てくれて、きっとお父様も喜んでるんじゃない?」
「だといいニャー」
だが、せめて。
せめて、あなたのおかげで助かった女の子が二人居るという報告くらいは、と。
赦しを乞うつもりは毛頭ない。フェイリスへの嘘とともに、俺は二重の罪を抱えている。感謝の言葉も死人にとっては皮肉だろう。許されないと分かっていながら続ける謝罪は、わがままをした俺の自己満足ですらある。
それでも世界を弄んだ罪の責め苦は、こうして償い続けるより他にないと思うから。一年間の沈黙を経てようやく自覚したそんな己の義務を果たすべく、だから俺はこうしてここに来た。ただひたすらに、世界線の向こうへと想いを捧ぐためだけに。
パパさん――。
優しい笑顔を思い出し、涙が出そうになってくる。けれどまさにそのパパさんのことを思えばこそ、俺が涙を流すわけにはいかなかった。
この墓参りは、そういう類のものだ。
「フェイリス。お前はパパさんのことを、どの程度覚えているんだ?」
悼む気持ちはそのままで、今まで聞かずにいた質問を投げかける。フェイリスからの返答は軽やかに。
彼女にとって、それはすでに十年も昔のことだ。だからそれもある意味では当然で、けれどそれを少し悲しいと思ってしまうのは、我ながらあまりに自分勝手なことだと思う。
「パパが死んじゃったのはまだフェイリスが小さかったときのことニャ。でも、その頃のことはとってもよく覚えているのニャ。ちょっぴり厳しいところもあったけど、それ以上にとっても優しいパパだったニャン」
「……そうか」
それは宝物を見せびらかす子どものように誇らしげな口調で。
だとしても、やはり俺は知っている。すでに心のケリはつけたようなそんな過去形にも、フェイリスは少なくない悔恨をその胸に残しているということを。タイムマシンを望み続けていた、とフェイリスはいつかどこかで言っていた。それに変わりがないと知っているだけに、嬉々として語るそんな態度が俺には辛い。
奪ったのは、俺かもしれない。そう告げたら、「この」フェイリスはどういう反応をするんだろうか。
「パパはいつだってフェイリスのことを大事に想ってくれていたのニャ。それに――」
フェイリスの誇らしげな話が続く……と思いきや、尻すぼみになる言葉には一転して僅かばかりの陰があった。続きを促すと、「うにゃ」とよく分からない感動詞を挟んで、
「それに、なんだか最近までパパの夢をよく見ていた気がするのニャ。フェイリスが覚えているパパの姿よりいくらか歳を取っていて、まるでパパがもしも生きていたらそんな姿なんじゃないか、っていうくらいにその夢はハマってたニャ」
「フェイリスさん、それは、寝ている間の夢ってこと?」
「そうニャ。その夢が見れた日は、ずっと眠っていたいくらいだったニャ」
「……そうか」
その名を知らずとも、紅莉栖はきっと気付いたろう。そして、どうして俺が紅莉栖を連れて、こうしてフェイリスの父親の墓参りに連れてきたのかも。
――リーディング・シュタイナー。
それはいつだってこちらの事情など気にはしない。無粋で理不尽で。フェイリスにとって、果たしてその記憶は思い出すべきものだったのか。俺はこんなことを期待してあんな嘘を吐いたわけじゃあ断じてない。
きっとメイクイーンを「思い出した」ときのフェイリスと同様、今回のそれもただの夢だとはフェイリス自身思っていないに違いない。パパの夢。最近までよく見ていたというそれは、きっと去年の今頃からぷっつりと見なくなっているはずだ。あちらのフェイリスもあれ自体が「ユメのよう」と語っていたように、真実それは夢となった。そのことに対して俺が何かを言えるはずもない。
フェイリスは俺の思っていた通り「去年の今頃から見れなくなったニャ」と続けて、更に言葉を繋ぐ。
「でも、あれはずっとパパの死を受け入れられなかったフェイリスを見かねての、死んだパパからの餞別だったんじゃないかって気が今ではするのニャ。その夢はとっても嬉しかったし、夢を見れなくなった今はやっぱり少し寂しいけど、でも、あの夢を見れたおかげでフェイリスは吹っ切れた気もするニャ」
「吹っ切れた……?」
陰のある声音が再び明るさを取り戻す。猫のように気まぐれなそれは空元気のようでもあったが、けれど本当の気持ちを暴露しているかのような切迫感もそこにはあった。
一度は秋葉留未穂に会っているからこそ、今の俺にはそれが分かる。
「そうニャ。夢を見なくなってからしばらくして、気付いたのニャ。ああ、ようやくフェイリスはパパの死を少しは受け入れられるようになったのかニャ〜って。きっとフェイリスが自分でそう思ったからこそ、夢は見られなくなったのニャ」
努めて猫語を多用して語るその姿は、どこかに誇らしさも見え隠れしていて。
フェイリスの言葉に、かつての世界線での記憶がダブる。「あの」フェイリスは、最後には全てを理解し受け入れた。だから世界線は変動し、だからユメはそこで途切れて終わる。去年の夏、俺がこの世界線に辿り着く前の出来事だ。
パパさんの死を受け入れる。
それがどんなに辛かったか。あのときのフェイリスの涙は、世界線の向こうへ消え失せた。けれどそれは確かにあった真実で、フェイリスはそれを「夢」と語った。あるいは、それを「夢」と語っていた。
まゆりの死を諦められなかった俺と、父親の死を受け入れたフェイリス。果たして違いはどこにあるというのだろう。
「フェイリス、お前は――」
「ニャンニャン。凶真、黙祷長すぎニャ」
「――おいっ?」
突然の、至近距離からの声。驚きに黙祷を解いて瞳を開ければ、チェシャ猫の微笑がこちらをのぞきこむようにして眼前へと近づいていた。いつギアが変わったのか、一転してそこにはいつものように底の読みにくい、人を食ったような良い笑顔。フェイリス・ニャンニャンと自称するときのハイテンションがそこにはあった。
相も変わらず長い睫毛がぱちくりと瞬き、その猫口がにやっと歪む。……ああ、やっぱりこいつは魔性の猫だ。その予感は、フェイリスの口から出てきたその言葉によって正しかったと証明される。
「夢は終わって、フェイリスはそれを受け入れたニャ。だから凶真も、そんなに気に病むことはないのニャ。『フェイリス』がそう言っているんだから間違いないニャ」
「なっ……」
ふざけるように、猫っぽいポーズを決めながら。
その上こなれたウィンクをしつつのそんな調子に、俺はしばし言葉を失ったのだった。
「凶真ー、何を見てるニャー?」
墓参りも済んで、帰り道。
再び俺たちは黒塗りの高級車に乗り込み、執事の黒木さんの運転で秋葉原まで送ってもらうことになった。ふかふかの椅子。雑音をカットする防音。ほとんど揺れのないサスペンション。これぞ高級車という乗り心地には相変わらず言葉もない。急な加速・減速のないゆるやかな乗り心地は、きっと運転手の腕だろうけれども。
「何を見てたというか、外を見ていただけだが……」
「ニャッ! ついに見つけてしまったのかニャ、この幹線道路を横切るように埋め込まれたあの紋章を……!」
「厨二病乙」
「ニャー。クーニャン冷たいニャー」
来たときと違うのは、フェイリスが助手席から後部座席へと移っていること。それに対して「だったら助手は助手席に移ったらどうだ、助手だけに」とか言ってはみたものの、完全なスルーを決め込まれ、いま後部座席には三人が並んで座っている状態だ。広い車内、ギャグが滑ったこと以外に特に窮屈さは感じない。高級車万歳である。
「そういえばマユシィは最近どうニャン? バイトに来なくなってから、めっきり合う時間が減っちゃって寂しいニャー」
「まゆりならだいたいラボに――って、そういえば受験のためにバイト控えてたのよね? ラボに来てるんじゃ本末転倒のような……その辺どうなの、岡部?」
「俺に聞かれても知らん。気になるならお前が勉強を見てやればいいではないか、天才若手研究者にして@ちゃんねらーのクリスティーナよ」
「@ちゃんねらーは関係ない! あとクリスティーナじゃない!」
「ニャニャ、@ちゃんねらーであることは否定しないのニャー」
「ちなみに天才も否定してないぞ、この自信家めが」
「あーもう、揚げ足もうっさい!」
だいたい天才を露骨に否定してもそれはそれで嫌味じゃないの、とかなんとかぶつくさ言いつつ紅莉栖は上げかけた腰を降ろす。走っている車内で立ち上がろうとするあたり大した奴である。フェイリスはニャーニャーと愉快そうに笑っているだけだった。こちらもこれまた大した奴だ。
「でも、そうね、まゆりが構わないっていうなら、勉強を見てあげるのも悪くないかもね。……そうだ、どうしてもっていうなら、岡部、あんたのも見てあげてもいいけど?」
「フッ、甘いなクリスティーナ。それでは逆だ。お前が請うのなら、お前のやっている研究にこの鳳凰院凶真の頭脳を提供してやっても構わんぞ」
「ああ、被検体として? なら大歓迎よ」
「くっ、の……、このマッドサイエンティストめが!」
「はいはいお前が言うなお前が言うな。大事なことだから二回言いました」
「でも、クーニャンに勉強を見てもらうっていうのは面白そうだニャー」
フニャフニャ、とよく分からない息巻き方をするフェイリス。目は爛々と輝き始めていて、それはあたかもエサを前にした猫のよう。こういう時、フェイリスは大抵ロクでもないことを考えている最中である。
けれどそれを知らない紅莉栖は、あっさりと猫娘に笑顔を向けて、
「フェイリスさんたちも一緒に、勉強会っていうのも面白そうね。私、そういうのちょっと憧れてたかも」
「それは良い考えニャ! みんなの都合の良い日に、是非やりたいニャー」
女子二人、予定ややることを話しながらわいわいと盛り上がる。特に紅莉栖はあまり見ない類の笑顔を見せていて、なんだか微笑ましくなってしまうくらいなわけであったのだが。
「……ニャフフ」
ひっそり聞こえたフェイリスの不敵な笑みに、俺は「どうなっても知らんぞ」と独り心の中で呟いたのだった。
見慣れた景色をたどり、車はほどなくしてラボの前へと到着した。秋葉原ならどこでも良かったのに、と言うと、このくらい構わないニャン、とフェイリス。小柄なフェイリス一人となってしまった広い後部座席には、少しだけ寂しさを感じてしまったりもしたけれど。
「なあ、フェイリス」
「ニャ?」
ドアから降りながら、別れ際に声をかける。紅莉栖は先に降りていて、もうラボの階段前で待機していた。ここからなら俺の声はきっと聞こえないだろう。
「改めて、今日は悪かったな。パパさんのお墓参り、無理言って連れていってもらって」
「それは気にしないでって言ったニャ。むしろ来てくれてありがとうって言いたいくらいだニャ」
「……なあ、フェイリス。本当に……本当に、俺は行って良かったと思うか?」
フェイリスの返答に対し、今度はその目を見ながらもう一度問いかける。チェシャ猫の微笑。長い睫毛で強調された大きな瞳は、やはり思った通り俺の雰囲気を敏感に感じ取ってくれたらしい。ちょっぴり浮かれていた表情は滅多に見せない真面目なそれへと変化して、フェイリスは少し考えたあと口を開く。
「凶真は、本当は行きたくなかったのかニャン?」
「そんなはずないだろう。無理を言ったのはこっちなんだぞ? 俺はただ――」
「パパは、十一年前に死んじゃったのニャ。そしてたとえそれが生き返るっていう甘い誘惑があったとしても、『フェイリス』はパパの死を受け入れたから、その誘いには乗らなかったのニャン。これは凶真じゃなくて、フェイリスの問題ニャ。凶真が気に病む必要はどこにもないのニャ」
俺の唇を人差し指で押さえつけて、フェイリスが夢での出来事を語っていく。甘い誘い、ままならない出来事。そして最後に「だからむしろ凶真が強い責任を感じることそれ自体、フェイリスの意志を否定することになるのニャン」とまで言って、フェイリスがその細い指をようやく俺の唇から離した。
そうまで言われては、指が離れても俺がそれ以上何かを言えるはずはなく。
「凶真は優しすぎるのニャ。今日、パパのお墓参りに来てくれて嬉しかったっていうのは本当ニャ。だから――」
車の後部座席に座ったまま、フェイリスは既に地面に降り立っている俺の方へと近づいてくる。移動したせいで窓ガラス、つまりは紅莉栖から完全に死角になったと気付いた頃にはもう遅く。
「だから、ありがとう。矛盾するけど、凶真がパパと私のことをここまで思っていてくれて、本当に嬉しかった」
「――っ」
なんと名前を呼ぶべきか。逡巡している間にフェイリス――いや、留未穂の顔が近づいてきて。
ちょん、と頬に柔らかい感触。
「お前、今……」
「ニャフフ、クーニャンを裏切るわけにはいかないニャン。これはただのアメリカ流の挨拶ニャー」
外したネコミミを一瞬にしてつけ直し、いつものいたずらっぽいスマイルを浮かべるフェイリス。俺の「鳳凰院凶真」よりずっと自然な変わりように、俺は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
だから、こいつはやっぱり凄い奴だ。
「それじゃ凶真、マユシィにもよろしくニャン。それと暇ができたら、またクーニャンやダルニャンとお店に来てくれると嬉しいニャ」
「ああ、そうだな。それと何を企んでるかは知らんが、紅莉栖のやつはあれでずいぶん楽しみにしてそうだ、勉強会のことは頼むぞ」
「当然ニャ。ぬかりなく準備しておくニャン」
フェイリスが座席を移動したのと合わせ、俺も車から一歩離れてドアを閉める。運転席へと合図を送ると、黒木さんが一礼して車の移動が始まった。
「それじゃ、また今度ニャ。フェイリスも時間があるときはラボに顔を出しに行くニャー」
「ああ、そうしてくれ。ダルやまゆりも喜ぶからな」
「ん、またね、フェイリスさん。都合の良い日、あとでメールするわ」
出発を待っていた紅莉栖とともに見送って、交差点を曲がっていくまでその黒塗りを見届ける。手を振るフェイリスの姿がビルの向こうにかき消えて、それと同時、ふう、と俺はとてつもない重さの肩の荷が降りていったのを自覚した。
「さて、それじゃ私たちも戻りましょ。緊張でちょっと疲れちゃった」
なんでもなく言って、とんとんと階段を登っていく紅莉栖。聞きたいことの一つや二つあるだろう。それでも聞かずにいてくれる相変わらずなその姿に、俺は心の中で感謝する。
「岡部ー、はやくしろー?」
「そう急かすな。すぐに行く」
鍵を開けながらの紅莉栖の声に返事をしてから、階段を上がる前にもう一度だけフェイリスが曲がっていった交差点の方へと目をやる。
――エル・プサイ・コングルゥ。
今度メイクイーンに行ったときは例の厨二病話に少しだけ付き合ってやるかと思いながら、俺はようやくラボへの階段を登り始めたのだった。
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