[Farewell to the Divergence]
3.


 コミマ最終日の喧噪がまだ耳に残る、翌日の昼下がり。ここ秋葉原では誰が呼んだか「コミマ四日目」が行われているようだったが、そこまでの関心はさすがになく、俺は溜まった疲れを昼過ぎまでの爆睡でのんびりと癒していた。それでも一日中ごろついているわけにもいかず、差し込んできた日の光を恨めしく思いながらようやく起床したのがつい先程のこと。時間も時間なだけにソファではすでにまゆりがのんびりとテレビを眺めていて、台所には昼食の跡も見えている。テレビの音量まで控えているあたり気を使われていたらしい。
 寝ぼけ眼をこすりながら、コミマ用に買っておきながら余ってしまった栄養補助食品をぱくりと口へ。あとは買い置きのカップ麺でも作ろうかと見渡せば、ラボはいつも以上に雑然とした状態で、比喩ではなく文字通り床が見えなくなるほどの有り様となっていた。
「ったく……おいダル! いい加減この同人誌の山を片付けろ!」
「ダルくんならいないよー? 買い逃した新刊があるからって、さっきとらのあなに行っちゃった」
「なっ……あのスーパーハカーめ、こういうときは無駄にアグレッシブな……」
 昨日だってへとへとになりながら、帰ってきたのはもう夜になってからだったというのに。にもかかわらず今度は秋葉原に繰り出してまた同人誌漁りとは。
 ちなみに補足しておくと、コミマ四日目というのは単なるジョークなわけではなく、地方からコミマにやってきた人間がもののついでということで秋葉原に寄ったり、あるいはダルのように特定のサークルを買い逃した連中がそれを補充したりしに来るということで、各同人誌書店の内部はコミマさながらの大行列に実際なるのである。アキバ全体にも人が溢れ、毎日のように秋葉原に来ている俺にしてみれば、今日ばかりはとらやらメロンやらには近寄ってみる気すらしない。そればかりか当然のようにアニメイトやゲーマーズあたりまでも大混雑だし、食事どころなどいわずもがなである。迷惑なことこの上ない。
「ああもう、じゃあダルはしょうがない。だがまゆり、お前のぶんだけでもいいから片付けてくれ。これじゃロクにカップ麺も食えんぞ」
「うん、いいよー。でもね、ちょっと待っててほしいんだー。いまコミマ中に録画したアニメ見てるから、それが終わってからでもいいよねー?」
「何を悠長なことを言っている! 俺の腹はいま鳴いているんだ!」
 放送中ならまだしも、録画したのならそれこそ飯を食いながらでも見ればいい! 俺は床の同人誌やらCDやらを踏みつけないように気を付けつつ(オタクグッズの恨みは怖い)、おもむろにテレビに近づいてブツッとその電源を落としてやった。
「あ、あ、あーっ。いいところだったのにー……」
「お前はいつどこだって『いいところ』だと言うだろう。続きが見たければはやく床を片付けるのだな!」
「オカリン、ひどいよー! まゆしぃはね、コミマ中もずっとこれを楽しみにしてたんだよー。だからせめて、これだけは見させてほしいなあ……」
「ぬ、ぐっ……」
 うー、と珍しく食いついてくるまゆり。こいつはこういうものと食い物に関してはわりと強情だ。
 押し切ろうと思えば押し切れる程度の抵抗の仕方だが……まあ、たかだか三十分程度のアニメだ、さっきから見ているようだったし、残り時間も少なかろう。日々を分刻みで忙しく生きている身としては遺憾だが、これでふて腐れられてはそれを見た紅莉栖にまた何を言われるか分かったものではない。仕方ないがまゆりの意見を通してやろう。
 あ、いや別に、まゆりが悲しそうだったからとか、紅莉栖が怖いからというわけではない。断じてない。
「『……ああ、俺だ。――なに、それが本部の指示なのか!? クッ、分かった。それもまた運命石の扉の選択なのだろう。……ああ、また連絡する。エル・プサイ・コングルゥ』――――というわけだまゆり、仕方ないからこのアニメが終わるまでは待っててやろう。だがそれまでだ、それ以上は一分たりとも待たんからな!」
「ありがとー! えっへへー、オカリンはやっぱり優しいなー」
「べ、別にお前のために待ってやるわけではないっ! これが運命石の扉の選択だからだ!」
 にこにこ顔のまゆりから目を逸らして、テレビのスイッチを入れ直してやる。パチッ、と古びたブラウン管に再び明かりが点いて――
「……ん?」
 明かりが点いて――
「おいっ?」
 明かりが――
「どうかしたの、オカリンー?」
 ――
「――……まゆり」
「んー?」
「残念なお知らせだ。どうやらアニメの続きはしばらくお預けのようだぞ」
「え……」
 言葉を止めたまゆりに対し、よく見えるようにしながらテレビの電源スイッチをカチカチッと押してみせる。まったくの無反応。連打しても天板を叩いてもリモコンを持ち出してもうんともすんとも言わない。コンセントを抜き差ししても変化無し。
「えええええっ! オカリン〜……」
 まゆりが悲しそうな叫びを上げても、無慈悲なブラウン管から反応が返ってくることはついぞないのだった。



 ブラウン管工房は魔境である。
 遥か昔から閑古鳥を飼っているこの店は、そもそもがアキバの外れに位置している上に、外から見ても道楽丸出しの面構えをしている。一見さんお断り。どこかの物好きが勇気を出して入ったところで、今度は奥からいかついスキンヘッドの登場だ。売る気のない接客態度はどこか威圧しているようにも見えて、さて、そんなものと対峙してまでブラウン管が欲しい客など、果たして日本中を探したって居るのかどうかといった具合である。
 そんなわけでこの時代錯誤のブラウン管専門店は、今日も元気に開店休業中なのだった。
「失礼する!」
「……うるせえのが来たなあ。おい、うちは客は待ってるが厄介者は待ってねえぞ、ええ、岡部?」
 自動ドアなんて大層なものはないこの店の扉を引き開けて、奥にいる店長――ミスターブラウンへと呼び掛ける。ダルとは違い伊達ではないその体躯はしかし俺の方へ向くことはなく、42型ブラウン管テレビを眺める姿勢から顔だけこちらに見せてきた。不機嫌というよりは、たいそうめんどくさそうな顔である。今どきは役所だってもっとやる気を見せるというのに!
「ミスターブラウン、この鳳凰院凶真が折角来たというのに、その態度はいささか失礼ではないかね」
「はあ? おい、『失礼』だなんて、おめえにだけは言われたくねえぞ」
「フゥーハハハ! だから言ったではないか! 入る際に『失礼する』と!」
「そうか。おいバイト、そのやかましいのをつまみ出しとけ。客じゃねえからな」
 それだけ言うと、ミスターブラウンは新聞を手に42型のテレビ番組へと顔を戻してしまった。
 シカト、ガン無視。いったいこのスキンヘッドは何様のつもりだというのか! わざわざ足を運んだというのにこのざまである。仕返しがわりにその後頭部をはたいてやろうかとも思ったが、”機関”に知られると厄介なので手近なブラウン管の音量ダイヤルをMAXにしてやった。鳳凰院凶真の恐ろしさをとくと知るがいい!
 ……と、いうか。
「閃光の指圧師! 居たのか!」
「……バイト、だから」
 いや理由は聞いていないが。
 テレビを眺めているミスターブラウンより入り口側、ブラウン管に埋もれるようにしてパイプ椅子に座っているのはラボメンナンバー005にしてアルバイター・桐生萌郁だった。いつも通りの服装、代わり映えのしない眼鏡。気怠いんだか眠いんだかよく分からないが、普段と同じローテンションな瞳がぼうっとこちらを向いている。
 ただ唯一印象と違うのはその手に持っているものが携帯電話ではなく、スイーツ(笑)が読んでいそうな雑誌であることだった。初めて萌郁をみた人間ならその組み合わせに違和感はなかろうが、俺にとってはそこには違和感しか存在しない。
「指圧師よ……貴様、スイーツ(笑)だったのか!」
「……?」
 はてな顔。
 というか、そもそも問題はそっちではなく。
「お前、携帯はどうしたんだ? いつも握りしめていたではないか」
「……」
 再びのはてな顔……と思いきや、萌郁はぱたりと雑誌を閉じて。
「携帯なら、ここに」
「俺が営業中はできるだけ控えろって言ったんだよ。目を離すとどころか、目の前ですら打ちまくるからさすがにな」
 ポケットをまさぐって携帯を見せてきた萌郁に対し、ミスターブラウンが新聞を眺めながらそう言ってきた。続けて萌郁は「メールの相手からも、了解、得たから」と呟いて、そのまま開くこともなくポケットへとそれを戻す。
 昔――というか、『かつて』は考えられなかったことだ。メール依存。面と向かって話すときですらメールを打つという冗談めいたことを素でやっていた萌郁が、こうもあっさりとそこから脱却できるものなのだろうか。口下手は相変わらずのようだが、それでもメールでの会話からすれば随分な変わりようである。俺としては、まるで初めて言語を獲得した猿人と対話しているような気分だ。
「しかし、助手の歓迎会のときはメールを打っていたよな?」
「緊張、してたから……人、多くて」
「あー、まあ、あまり会わないルカ子やフェイリスも居たからな……」
 ラボメン同士で緊張もどうなんだ、という疑問もあったが、そもそも騒がしいことそのものが緊張の対象だったのかもしれない。帰り際のメールもそうだし、ルカ子らの料理をそれなりに食べていたことからも、嫌がっていたわけではないとは思う。
「しかし、メールを打たない閃光の指圧師、か」
 ふむり、としばし考える。
 メールの相手。今の俺が知らないはずのそれを、けれども俺は知っている。コードネームFB。白々しい顔して「営業中は控えろと言った」とか言いつつ、しっかりメールで根回ししているあたりゴツいくせして結構なやり手である。
 だが、かつてだったらそれでも萌郁はメールを打ったことだろう。こいつの依存はハンパじゃない。あのボロアパート、自殺を数日後に控えたうつろな瞳は忘れようにも忘れられない。
 孤独と依存。居場所がメールとその相手であるFBにしかなかった萌郁は、だからメールに固執して、だからメールが来ないだけで自殺してしまえて、だから拳銃での任務執行を厭わなかった。少なからず区切りがついたとはいえ、今でも思い出したくはない記憶だ。
「で、岡部。結局おめえ何の用なんだよ。冷やかしならとっとと帰れ」
 思考が悪い方へと流れていたところで、ミスターブラウンの声にはっと我に返る。そうだ、別に今日はそんな用事で来たんじゃない。
「そうだったそうだった。冷やかしなどをしている暇は俺にはないのですよ、ミスターブラウン。用がなければ誰がこんな道楽丸出しの趣味の店なんぞに――」
「ああ? おめえ、俺にケンカ売りに来たのか? しょうもないこと言ってねえでさっさと用件を話せ。でないと本当につまみ出すぞコラ」
「……テレビが壊れたので修理してください」
 くっ、元はといえばすぐ壊れるオンボロテレビを押し付けてきたせいだというのに、どうして俺がこうも下手に……!
 しかしことブラウン管テレビに関してはミスターブラウンの独壇場であるだけに、プライドを捨ててでもこうして頼まねばならないのが現状である。ダルも紅莉栖もこういうハードには疎いし、そもそも修理部品がこのブラウン管工房くらいにしかない可能性だってあるのだ。これが資源権益を振りかざした圧力外交というものか!
「テレビって、去年も直してやっただろ? また壊れたのか。どんな使い方してんだよ、俺のブラウン管テレビちゃんをよ」
「どんなって、普通の使い方しかしてませんよ。……萌郁よ、ちょっと手伝ってくれ」
 あらかじめ店先まで降ろしてきていたブラウン管テレビを萌郁とともに持ち上げ、店内へと運び入れる。ブツクサいいながらも店長は慣れた手つきで反応を試し、分解し、あっさりと原因を見つけてくれた。
「ああ、こりゃ電源異常だな。大丈夫だ、予備があるから交換すりゃすぐ直る」
「ほう、それは僥倖! では早速修理してくれミスターブラウン」
「ったく、なんでそんなに偉そうなんだか……おいバイト、領収書取ってこい。あとそこにある電源のA型な」
「なっ!? また金を取るのか!」
「むしろなんで毎回毎回、金を取らないと思うんだよおめえは。安心しろ、部品は原価で譲ってやる」
「くっ……! これが”機関”のやり方か……!」
 ミスターブラウンはあっさりと部品を交換し、テレビを元の状態へと戻した。コンセントとテレビのケーブルを繋げて試しにスイッチを入れると、オンボロっぷりはそのままにブラウン管へと光が戻る。音声にも問題はなし。本当に部品交換だけで直ったようだった。
「じゃ、しめて1000円だ。ほれ、領収書」
 さらさらっと顔と身体に似合わぬ達筆で金額と内容を記し、こちらに渡してくるミスターブラウン。仕方がない。あまり遅れてもまゆりから不満が出そうだし、さっさと払って戻ろうと財布を開いて――
「……ん?」
 財布を開いて――
「おいっ?」
 財布――
「どうした、岡部?」
「岡部、くん?」
 ――
「――……残念なお知らせだ。ミスターブラウン、それに指圧師よ」
「なんだ? またツケにしろってんなら、こっちもそろそろ家賃に上乗せすることを考えなきゃならなくなるぞ」
「いや、そうではなくてですね……」
 白衣のポケットから取り出した財布を開いたまま、テーブルの上で逆さまに振る。
 ちゃりん。百円玉。
 ちゃりんちゃりん。十円玉二枚。
 ちゃりん。五百円玉。
 ……。
 以上。計六百二十円也。
「……」
「……」
「……」
 沈黙が、重なった。



       ○  ○  ○



「うわっ、ホントに岡部がバイトやってる」
 その日の夕方。俺がいくつあるんだか分からないブラウン管の合間を縫って店内の掃き掃除をしていると、冷やかし100パーセントの声が店先から聞こえてきた。「うわっ」てなんだ、「うわっ」て。
 めんどくさいやつが来たものだが、無視するというわけにもいくまい。掃き掃除を一旦中断して、入り口のガラス戸を引き開ける。
「おい助手、冷やかしならお断りだぞ」
「恥ずかしいんですね、分かります。あ、萌郁さん、ハロー」
「……」
 ぺこ、と助手に対し会釈を返す萌郁。少し礼が深くなっているように見えるのは、客商売のバイトだから、ということなんだろうか。いまだに萌郁の対人反応には理解しづらいところがある。
「しかし、お前もこの時間からとはずいぶんと重役出勤だな。同人誌でも読みあさっていたか」
「橋田みたいのと一緒にすんな。私はまゆりからメールが来たからよ」
「メール? なんて?」
「『オカリンがブラウン管工房でバイトしてるんだよー』って。そう言われたら、見に来ないわけにはいかないじゃない?」
「野次馬根性丸出しのスイーツ(笑)めが……!」
 はいはい、と紅莉栖は俺の言葉を流して、ブラウン管工房の一番奥をのぞき込む。ええいっ、冷やかしならお断りだと言ったろうが!
「店長さん、いないんだ?」
「フッ、萌郁はともかく、俺ならば店番その他に不足はないからな。やつは獅子身中の虫を見抜けず、こうして無様にも己が根城をまんまとこの俺に――」
 俺が喋っている途中で、ぴろぴろと携帯の着信音が鳴り始める。俺ではなく、紅莉栖だ。人には面と向かって携帯に向かうなと言っておきながら、紅莉栖は躊躇なく懐から携帯を取り出した。
 なんだこのダブルスタンダードは。まるで俺の話を聞く気がないみたいではないか! まるで俺の話を聞く気がないみたいではないか!
「ふーん、綯ちゃんのお迎えか。相変わらずの溺愛っぷりって感じね」
「……」
 紅莉栖の言葉に、背後の萌郁がこくりと頷く。その手には雑誌とともに携帯が握られていて、俺は今起こったことを瞬時に理解した。
「く、裏切ったのか! 俺の目を盗むとは、さすがは閃光の指圧師と呼ばれるだけのことはある……!」
「いや呼んでるのあんただけだろ。……それじゃ、私は上行くけど。萌郁さん、岡部のことよろしくね」
 萌郁が再びこくりと頷いたのを見て、紅莉栖は俺に「あんたもせいぜい頑張りなさい」と少し笑いながらラボへの階段に消えていった。本当に冷やかし100パーセント、俺がやったらミスターブラウンからの拳骨は免れない態度である。
 それに「岡部のことよろしくね」って、あいつは俺の母親かなにかか! 萌郁も堂々と頷いて返したし、いい加減ラボメンとしての立場の差というものを教えてやる必要があるかもしれない。
「おい、指圧師!」
 まずは手近な萌郁から。
 だというのに俺の呼び掛けに反応はせず、萌郁は時計をちらりと見てからぼそぼそと口を開いた。
「あと、三時間、だから」
「三時間? 何がだ?」
「ツケを払い終わる、時間……そのくらいだって、そう、言われた」
「なん……だと……。ミスターブラウンが帰ってくるまでだけではないのか!?」
 俺の問いかけに対し、萌郁はふるふると首を振る。
 ……ま、まあ、その、あれだ。
 ラボメンとしての立場の差を教えてやるのは、それが済んでからでも構うまい。あまり事を急いで”機関”に知られても困る。だからしょうがない、あと三時間は黙ってバイトに精を出してやろう。
 ちなみに何を知られてどう困るのかは聞かれても答えない。ご了承下さい。



 かつてここには、バイト戦士という名のアルバイトが居た。
 もとい、本名は阿万音鈴羽といったか。その正体はとりあえずまあ、どうでもいい。問題なのはそのバイトが年がら年中店の前で自前のMTBをいじっていたことであり、
「……暇だ」
 今の俺には、そのときのあいつの気分が嫌と言うほど分かってしまっているということである。
 ブラウン管工房のアルバイト。サボっている鈴羽を見るたびに冗談めかして注意していたものだったが、このバイトがここまで暇だとはさすがの俺にも予想外だった。
 いや、客が来ないことは知っている。言われるまでもなくよーく知っている。いつ見たってミスターブラウンは暇そうにしていたし、客が入っているのを見たことはただの一度たりともない。出入りを見たことがあるとすればそれは客ではなく、ブラウン管を回収しに行くミスターブラウン本人くらいなものだ。
 けれど、それでもこうして店を構えている以上、何かしているとは思っていたのだ。
 俺たちが見ていないところで、例えば店内の掃除だとか、半分壊れたブラウン管の修理だとか、はたまた本業として実は法人営業をしていたとか。そういう「らしい」仕事がどこかにあって、まさか開店から閉店まで何もやることがない、なんてことはあるはずがないと思っていたのだ。
 ……そして、まあ、つまり。
 実際はその「まさか」だったのである。
「萌郁よ。こんなバイト、よく飽きずに続けていられるな。ミスターブラウンは居ないのだし、サボってもいいんだぞ?」
「……」
 あまりの飽きにもう一人のアルバイトに話を振るも、返答はふるふるという首の動きで返された。萌郁は続けて「バイト……そういう契約、だから」という小さな呟きを付け加えると、会話は終了とばかりに、わずかに上向いた顔を再び雑誌へと戻してしまう。見上げた忠誠心だった。
「……はあ、暇だ」
 もう一度呟く。
 携帯で@ちゃんねるを見るのもさすがに飽きてきた。ミスターブラウンに「絶対つけるんじゃねえぞ」と言われた42型ブラウン管テレビでは、夕方のつまらないワイドショーがどこどこの芸能人がどうたらこうたらという情報を垂れ流している。店先は人通りすら少なく、さっき再び冷やかしに来たダルと紅莉栖と蹴り飛ばして以降はラボメンからの音沙汰もない。あまりの暇さにいっそのこと店中のブラウン管のリモコン(本体近くに置いてある)の場所を入れ替えてやろうかとも思ったが、戻せと言われても戻せないのでやめておいた。
 せめて暇つぶしの相手でも居てくれたら。同人誌に夢中のラボメンと雑誌に夢中の萌郁に溜息を吐いて、俺は机に突っ伏した。
「岡部くん……眠い、の?」
「眠くはない。やることがなさすぎて暇だと、さっきから言っているだろう」
「でも、そろそろ帰って、くる。戻るの、いつもこの時間、だから」
「なっ……ミスターブラウンがか!?」
「……」
 急いで顔を上げて見ると、萌郁はこくりと頷いた。
「ええい、それを早く言えというのだ!」
 それはまずい。俺は慌てて飛び起き、まずは42型ブラウン管テレビの電源を落とし――ああいや待て、できればチャンネルは点けたときのものに戻しておいたほうがいい。それから飲みかけのドクペを白衣のポケットへと滑りこませ、店内を眺めていたときにちょっぴり蹴飛ばしてしまったブラウン管を元の位置へと戻す。あとは店先の掃き掃除をしろと言われて渡されたホウキとチリトリはさも使ったかのように入り口付近へ移動して、暑いからとガンガンに効かせていた冷房を逃がすためにガラス戸をやや大きめに開けた。冷気よ、バレぬうちにさっさと外へ逃げてくれ。もちろん設定温度を戻すことも忘れずに。
 ……うむ。これでミスターブラウンが帰ってきてもなんとか大丈夫なはずである。
「フッ。こうまでして偽装工作をせねばならぬというのも、”機関”に追われる身の定めか……」
「偽装……?」
「あ、いや、なんでもないぞ桐生萌郁。ちょっぴり仕事の成果をアピールしたというだけだ」
 ふう、と一息ついて椅子へとその身を落ち着ける。危なかった。萌郁もたまには役に立つことをするではないか。あとでまゆりのバナナを食う権利をやろう。
 しかしテレビもなく、さてこれからどうやって時間を潰そうか。そう考えた矢先、遠くから近づいてくるエンジン音が耳に入った。聞いたことのあるバイクの唸り。ほどなくしてそれが店の前へと到着し、小動物を連れてスキンヘッドの凱旋だ。
「おう岡部、ちゃんと店番してたみてえだな」
「当たり前ですミスターブラウン。俺をそこらのバイトと同列に扱うのはやめていただきたい」
「そのめんどくせえ口調が治ったら考えてやるよ。……それよりさっさと表出ろ。おめえが居ると綯が怖がんだよ」
「なっ……! それが労をねぎらう態度かミスターブラウン!」
「対価は払う。だがそれとこれとは話が別だ。なあ綯、こいつが居たら落ち着けないよな?」
「えっと……」
 いかつい上に失礼千万なミスターブラウンの後ろに隠れるようにして、こちらをうかがう小動物がそこにいた。普段からなぜか俺を怖がっているというのに、けれどその口から「邪魔だから出て行って」なんて言葉は出てはこず。
 ……いや、というか、きちんとバイトをこなした人間に対し、戻りっぱな「出て行け」なんて普通の人間は言わないだろう。どこをどう間違って育ってしまったのか、こんな礼儀正しい少女であればなおさらである。
「フゥーハハハ! ミスターブラウン、あなたよりも娘のほうがずっと義理人情に篤いらしいな!」
「ひっ!」
「おい岡部! てめえそのやかましいキャラで綯を怖がらせたら殺すって言ったよな?」
「今度はそっちか! クッ、これも俺の頭脳を怖れた”機関”による陰謀か……!」
 なんにせよ埒があかない。ものすごく、ものすごーく癪だが、バイト代は払うと言っているのだ。でれば仕方ない、言われたとおり出て行こうとして椅子から立ち上がると――、
「安心、して。怖くはない、から」
「……萌郁?」
 ミスターブラウンの背後。隠れるようにしていた天王寺綯に、いつ近づいたのか萌郁が優しい声をかけていた。頭を撫でながらしゃがみこみ、少女と目線を合わせるように。まったくタイプも表情も違うというのに、その仕草はまゆりのそれを思い起こさせる。
「大丈夫。怖くは、ない。……ちょっと変なだけ、だから」
「おい閃光の指圧師。フォローになってないぞ」
 思わずツッコミを入れてしまったが、萌郁の言葉を聞いてシスターブラウンがおそるおそる俺の顔を見上げてくる。ミスターブラウンの太い身体に隠れるようにしていた姿勢も少しずれ、どちらかといえば萌郁の方へと寄り添う形に。救いを求めるようにもう一度萌郁の方を小動物が見上げると、萌郁は安心させてあげるようにこくりと頷いた。
 ……まるで親子だな。
 年齢以上に幼く見えるまゆりが姉代わりなら、こちらはさしずめ母親だ。少なくとも父親よりは遥かに似ているんじゃなかろうか、なんてことを思ってもみる。
「それなら……ねえ、お父さん。私、オカリンおじさんと一緒でも、いいよ」
「ああ、まあ、綯がそう言うなら俺も無理には言わねえけどよ……」
 困惑顔のミスターブラウンが、娘と萌郁を交互に見やる。髪もないくせに頭を掻く仕草をして、最後にいかつい顔をこちらへと向けてきた。
「だ、そうだ。だが綯がどう言おうと、変なことしやがったら今度こそ叩き出すからな」
「冗談はやめてください。ああそれと……バイトのこと、大事にしてやってくださいよ」
「ああ? 珍しいな、おめえがそんなこと言うなんて。どういう風の吹き回しだ?」
「別になにも。ただ、あなたにはその義務がある、ってことですよミスターブラウン。彼女はうちのラボメンでもありますしね」
「はっ、岡部にしては随分と殊勝なことを言うじゃねえか」
「俺はいつでも殊勝ですよ」
 帰ってきた店長に一番でかい椅子を譲り、俺は萌郁が使っていたパイプ椅子へと移る。綯と萌郁は俺に一声かけたあと、入り口近くの椅子に移動して二人で雑誌を見始めていた。
 店長はいつもの指定席に座ったにもかかわらず、42型ブラウン管テレビをつける素振りはない。巨体で背もたれを鳴らしながら、雑誌をのぞき込む二人の様子を見ているだけだ。口元にはわずかな笑み。普段であれば愛娘に対する溺愛としか思えないその視線に、萌郁も含まれていることに俺は今になってようやく気が付いた。
 ――FBは私のお母さんみたいな人で――
 自殺寸前の病的な瞳で呟いた言葉が、今も耳に残る。
「……母親代わり、ねえ」
「ああ? 何か言ったか?」
「いや、何も」
 FBと、M4と、復讐者と。
 消えていった世界線での歪な関係は清算され、この小さな工房に負の感情は見る影もない。ミスターブラウンは隣人を監視する必要がなくなり、萌郁は携帯ひいてはFBに依存する必要がなくなり、天王寺綯は父親の復讐をする必要がなくなった。
 それぞれの原因があのタイムリープマシンにもあったとするのなら、これもまた運命石の扉の選択なのだろう。
 ――エル・プサイ・コングルゥ。
 居なくなった誰かに報告するかのごとくそう呟いて。
 ラボに劣らず居心地の良いその空間で、俺は結局閉店までアルバイトに精を出したのだった。
 ……ま、ほとんど座ってただけだけどな。

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