[Farewell to the Divergence]
2.


 ――振り返ってはいけない。
 自分がいつここにやって来たのか、記憶はない。
 身体が動かない。
 目的地が見えない。
 ――……。
 声が、響いた。
 すぐそばでささやかれたようにも思えるし。
 はるか遠くで叫んでいるようにも聞こえるし。
 周囲を何万人という人数にぐるっと囲まれて同時に呼ばれたようにも思えた。
 ――ここは、どこだ。
 ここは――
 移動することができない。
 停止しているようにしか見えない。
 墜ちていく。
 引きずられていく。
 闇の底へ。
 あるいは宇宙の果てへ。
 本当に近づいているのか?
 止まっているんじゃないのか?
 そう錯覚してしまうほどの緩慢さで。
 ――振り返ってはいけない。
 そこには、あんたの同類が無限に連なっているから。
 俺は停まりそうになっている。
 完全な停止ではない。
 限りなく停止に近い進行。
 いつ、たどり着ける?
 徐々に時間は短く。
 徐々に体感は長く。
 振り返ってはいけない。
 振り返りたい。
 戻りたい。
 振り返れない。
 戻れない。
 なぜなら、それは――
「ほんの少し、ほんの少しずつでいいので、前の方との隙間をお詰めくださーい!」
「開場までもうしばらくお待ちください! なおトイレは移動が始まるまでに済ませておいてくださーい!」
「荷物チェックにご協力お願いしまーす!」
 ――それは、ここがコミマの待機列だからである。



「どうだ、助手よ。俺の言ったとおりだったろう?」
「……認めざるを得ないわね、未経験ゆえの過ちってものを」
「そもそも初参加で始発組ってのが無理あるだろ常考。ま、今日は過ごしやすい気候で良かったけど」
 これで雨だの猛暑だのだったらと思うとぞっとするわ、なんて肩を落として呟く紅莉栖の姿を見ながら、俺は持ってきたドクペを一口ぐいっと飲み込んだ。
 コミマ初日。夜明け前から行動を開始し、6時台の電車で辿り着いた俺たちを待っていたのは、もはや風物詩となった大群衆の待機列だった。「これだけ早く出発したんだし、ほとんど人いないんじゃない?」なんて余裕をこいていた紅莉栖も、秋葉原からの同乗者にそれっぽい人を見かけて首を傾げ、りんかい線への乗り換えあたりでその人数に気付き、駅を出てからは目を点にして首を伸ばした鶏のようにあちこちを見回している。
 視界を埋め尽くす人、人、人。
 始発で来たのになんでもうこんなに居るのよ、という疑問には「大人の事情」としか答えようがないが、経験者から言わせればこの程度まだまだである。逆に言えば始発で来たからこそこの程度で済んでいるのだ。開場直前あたりは隣駅の先まで列が伸びる、という話をダルがすると、紅莉栖は笑うこともできずに頬を引きつらせただけだった。その反応が面白いといえば面白い。始めてきたやつはだいたいそういう反応になる。ご了承下さい。
「人混みってレベルじゃねーぞ……想像の倍どころじゃないわよこれ」
「だから言ったろう、戦争だと」
 すでに到着している始発組なんてのはおおむね慣れている連中なのだろう、周りを見れば折りたたみ式のパイプ椅子や暇つぶしのゲーム機などは標準装備で、そこからはその経験豊富さが見て取れた。だいたいはグループを組んでいるが、その長すぎる空き時間をどう潰すかはいかなベテラン勢といえど重要な問題だ。今もそこら中でピクトチャットやすれ違い通信が行われていることだろう。
 けれどそれ以上に多いのは、夏休みの宿題を最終日に片付ける小学生さながらの、事ここにいたってのサークルチェックをしている連中である。
 ……と、いうわけで。
「見ろ、諸君。これがまゆりから渡された今回の指令だ」
 A4のコピー用紙二枚にずらりと並んだサークルリスト。まゆりがROM版でチェックを入れ、ラボのプリンタで印刷したものだ。
 というのも、「あ、オカリンも行くのー? ねえねえ、できたらでいいんだけど、始発で行くならまゆしぃの買い物を手伝ってくれると嬉しいなあ」という期待の籠もった眼差しに、紅莉栖が安請負いしてしまったからである。抗議をするも時既に時間切れ。「いいじゃない、別に買い物の手伝いくらい。急いで買いたい物があるわけでもないんだし」という紅莉栖の言葉に、俺はせいぜい後悔するがいいと心の中で呟くことしかできなかったのだ。
 ちなみに俺たちが並んでいるのは東館で、西館に行くというまゆりとは途中で別れている。ダルは別にまゆりの買い物を手伝うつもりはなく、目当てが東館だというから一緒に並んでいるだけだ。そのためさっきっから時折携帯をのぞきつつ、真剣にカタログの地図と睨めっこをしている。色違いのペンはまだ分かるとして、地図に書き込まれている線はまさか順路か、順路なのか。
「ねえ、このまゆりのリストの『一限』とか『二限』ってどういう意味なの?」
 と、こちらはこちらでまゆりのリストを興味深そうに眺めている紅莉栖。リストの欄外にはまゆりの丸文字で「新刊二限」とか「できれば既刊も」「ここは搬入多め」なんてメモが書かれているため、それのことを言っているのだろう。
「ああ、それは購入制限数のことだお。一限だったら一部……つまり一人一冊限定って意味。搬入数に限りがあるし、無制限にすると転売目的で売り切れとかあるから、人気サークルはそうやってるところが多いんだお」
「ふむ。ということは俺と紅莉栖で行けば、一限のところでも二部買えるということか」
 俺だって長々と並ぶくらいなら自分のぶんくらい欲しくなることもあるし、紅莉栖だってそうだろう。一部の余分があって困るというものでもあるまい。
「……ん? あれ、私と岡部は別行動にした方が効率いいだろうから、そうするもんだとばかり思ってたんだけど」
「何を言っている。お前がこのオペレーションを単独でこなせる自信があるというのなら、そうしてやっても構わないが」
 だがそんなものは無理に決まっている。さっきから借りてきた猫みたいにびくついている紅莉栖では迷子になるのがオチだろうし、だいたいこいつは無駄に目立つ。目を離したところで面倒ないざこざを起こされてはたまらない。
 ……こういうのは、普段ならまゆりに対する心配なんだがな。
「はあ……癪だけど、岡部の言うとおり。一緒に来てもらった方が助かるわ」
「オタク趣味に理解のある彼女を連れてコミマとか! オカリン謝れ! 男だけで来てる彼女なしの参加者十三万人(推定)に謝れ!」
「ほざくなダル。こいつは彼女ではなく俺の助手だ。というかそう見られたいだけなら、まゆりと一緒に西館に行けばよかろう」
「いや、でもこっちでは僕の二次元嫁が待ってるから。いくらまゆ氏でも、それを裏切ることは僕にはできないお(キリッ」
「意味が分からない……っていうか、助手じゃないって言ってるだろ」
 じゃあ彼女扱いの方が良かったのか、というツッコミは墓穴を掘りそうだからやめておくことにして。
 俺とてコミマに精通している、というほど詳しいわけではない。それでもこの空気に酔うくらいには無知なわけでもなくて、おそらくは紅莉栖も似たようなものだろうと思う。だからきっと、俺たちは二人でまゆりの買い物を楽しむくらいが丁度良い。それは去年の夏、どこかの世界線でコミマを訪れた失策からの教訓だ。
 ぶつくさと文句を言いながら、それでも紅莉栖はサークルリストとカタログ(しかもきちんと初日分だけに分割してある!)を照らし合わせながらマークをし始める。普段はダルに劣らずだるそうで仏頂面のままやりそうなそんな作業も、今回ばかりはずいぶんと楽しそうにやっているように俺には見えた。
「ほら、あんたも見てるだけじゃなくて手伝ってよ。私、中のことはよく知らないんだから」
 ダルの真似なのか、器用にボールペンを回しながらのその言葉に、俺は苦笑しつつ頷いたのだった。



 それから数回の移動を挟み、ようやくコミマ開始の放送が入る。申し合わせたわけでもないのに間髪入れず拍手が広がるさまは、慣れていない身からすれば紅莉栖ならずとも驚いてしまうというもの。ぱちぱちと遅ればせながら拍手を送り、恒例となった「走らないでください」の叫び声とともに俺たちより前方の群衆がぐいぐいと会場内へと押し流されていく。
 さあ、いよいよ開戦だ。
「おっしゃあ、燃えてきたあ! 悪いけどオカリン、牧瀬氏、正直会場に入ったら面倒見切れないんで、また後で落ち合うお!」
「フッ、そうだな。それまで死ぬなよ、ダル」
「オカリンのソレも、コミマでは笑えねーお……」
 急に渋滞が緩和した高速道路のように、ずんずんと進む待機列。到着時にあれだけいた群衆の山もいつのまにか会場にすっぽり収まってしまったようで、俺たちもまたほどなくして入り口へと辿り着いた。感慨にふける間もなく押されるようにして中へと入り、ダルとともに東館方面へと急ぐ。
 入り口は狭いが、中へ入ってしまえばそれなりの広さだ。一気に緩やかになった人口密度に誰しも歩調は速まり、早歩きの隙間を更に競歩のような連中が駆け抜けて……もとい、歩き抜けていく。
「――って、あれ? オカリン、牧瀬氏は?」
「む? ……おい、まさかもうはぐれたのか?」
 ダルの指摘に振り返る。当然のようについてきていると思ったその姿はそこにはなく、立ち止まった俺たちの横を迷惑そうに他の参加者が通り抜けていった。
 冗談だろう? あのつっけんどうな仏頂面を探してまわりを見回すも、それらしい姿はどこにも見当たらない。流れて行く人の群れ。すぐ見つかるだろうという見通しはすぐさま焦りに変わり、己の迂闊さに後悔している暇さえない。
 普段はむかつくくらい冷静でしっかりしているくせに、こういうときに限ってあいつは……!
「どうする? まだ間に合うだろうし、戻ったほうがよくね?」
「まるでまゆりだな……しかし、くっ! ダルよ、ここは俺に任せて先に行け! お前には『アレ』を手に入れるという重要な使命があったはずだ! 俺たちに構わず――」
「いや確かに、スタートダッシュが大事って意味ではそうしたいのも山々だけど……おっ?」
 俺の重要なセリフを途中で遮ってくれたダルが、今度は自分の言葉を途中で止めて目を細める。メガネの奥の、視線の先。歩き抜けていく参加者の邪魔にならない位置に寄ってから目をこらせば、見慣れたパーカーが立ち往生しているのがかろうじて見えた。
 どうやら最初の分かれ道で俺たちを見失ったっぽい。きょろきょろとしているサマは明らかに迷子のそれだ。
「まったく……心配かけさせる」
 思わず膝を折って安堵の息。
「じゃオカリン、任せていい? 見つからなかったらあれだけど、一応は見つかったわけで……ここから戻るロスはちょっと痛いお」
「フッ、任せろ。このマッドサイエンティスト鳳凰院凶真が、間違いなくクリスティーナをこの混沌のイベント色に染め上げてくれるわ! フゥーハハハ!」
「はいはい、まあそういうことでよろ。なんかあったら携帯にメールくれればいいお」
 電話は繋がらんしね、と忠告をするダルに頷いてみせて、俺は踵を返し人の流れを遡る。まだ会場直後の場内、驚きとか疑問とかより「邪魔くせえ」という視線を一身に受けながら駆け戻り、ちぢこまったそのパーカーの肩に手を掛けた。
「おい、そこの迷子」
「な――岡部っ!?」
「ちょっ……!」
 振り向きざま、カタログを手にした紅莉栖がこちらを驚いた表情で見上げてくる。少しばかりくしゃくしゃになった地図。その後ろ姿からも途方に暮れていたということはなんとなく分かったが、しかし、なんだ、コレは――
「あっ!」
 俺が戸惑っていると、その表情が急に何かに気付いたように跳ねて、紅莉栖はくるりとこちらに背中を向けた。パーカーの袖で顔をごしごしとこするような仕草をして、すぐさま再びこちらへと向き直る。さっきまでは驚きと安堵に溢れてた表情が、なぜか今度はこれ以上ない睨み目だった。
「べ、別にこのくらいで泣いてなんかないんだからっ! ただちょっと、いきなりはぐれた自分が情けないとか、どうして置いていくんだとか、気付けよこの馬鹿とか、今日はもう楽しめないのかなとか、そんなことを思っただけで……」
「いや、俺は別に何も言って――」
「そう! 私を置いていったあんたが全部悪い! あれだけ一緒に行くとか言っておいて、初っ端から忘れるとかありえないだろ常識的に考えなくても!」
「あ、いや、それについては悪かったとしか……」
 しかも気付いたのはダルだしな。
 いや、言い訳をすれば、紅莉栖がこのくらいで迷子になるとは思っていなかったというか……そういう意味では、お互い浮かれてたのかもしれないと思う。
「だがすまなかった。俺も迂闊だった」
 頭を下げる。軽率な行動が予想しえない事態を引き起こしてしまうことを、俺は誰よりも知っているというのに。
「えっ、あ、うん、分かればいいんだけど……でもごめん、言い過ぎた。私もちょっと浮ついてたから」
 慌ただしい人混みの中、周囲とのコントラストに頭を掻く。ノリノリだったテンションも冷や水を浴びせられたように冷め切ってしまい、紅莉栖は顔にこそ出さないものの怒られた小学生のようにしょんぼりとしてしまっていた。開幕からこれで、どう楽しめというのか。
 ……仕方ない。少し、大きく息を吸って。
「フ、フゥーハハハ! どうしたクリスティー……いや、セレセブよ! その憎たらしいほどの財力で、雷ネット島を絨毯爆撃するのではなかったのか!」
「え、いや……って、誰がセレセブだ! だいたい私はもう19歳!」
「ほう。それは『もう私は18禁同人誌を買えるんですよ』というアピールのつもりか? そうかそうか。ならば心ゆくまで買い漁るがいい! お前がいかにHENTAIであろうと俺は決して咎めはせん!」
「HENTAI禁止! ああもう、珍しく謝ったと思ったら! 18禁じゃないけど、私だって欲しい同人誌くらいチェックしてきたの! まゆりの買い物もあるんだから、あんたに文句言って時間潰すのも惜しい!」
 ローテンションが鮮やかに翻り、ぷんすかと肩をいきり立たせながら俺を置いて東館へと足を向ける紅莉栖。仕返しのつもりだろうか。だとしたら可愛いもんだと、俺は笑いながら息を吐く。
「紅莉栖」
「なによ? ……って、え? 今あんた私のこと普通に――っ」
 先行した紅莉栖に駆け寄り、いつかまゆりにしたのと同じようにその右手を掴み取る。驚きで立ち止まったその横をすり抜けて、今度は俺が引っ張る形に。
「ちょ、岡部!?」
「……この人混みを抜けるまでだ。また迷子になられては面倒だからな」
 これだけ人の流れが速くては、どうせ誰も見てはいまい。
 後ろから聞こえてくる紅莉栖の抗議だかなんだかよくわからないツンデレ声を聞き流しながら、俺たちはそのまま東館にたどり着くまで早歩きを続けたのだった。



 まゆり所望の壁サークルをまわり、そのまま紅莉栖が目星をつけていたというジャンル(やはり雷ネットが主だった)の界隈を散策し終えると、水平線ギリギリだった太陽がもうずいぶんと高くなっていた。会場直後の慌ただしさも一区切り。ほっと一息つきつつ携帯を見ればタイムスタンプが過去のメールがようやっと届いてきたところで、まゆり、それからダルの両名が一度合流しようと呼び掛けてきていた。集合場所はコスプレ広場。時間差からして、二人はもうそこに着いている頃だろう。
「しかし、人は減る気配がないな……」
 東館からコスプレ広場への順路を辿る途中、ちらりと俯瞰した会場の様子から人の多さを改めて思う。ゴミとかアリとかと形容したくなる人数。紅莉栖も似たような感想だったのだろう、「oh...」とか「hm...」とか、とにかくアメリカナイズな感嘆の息を漏らしていた。助手のくせにずいぶんと格好良いので真似しようかとも思ったが、俺は賢明なのでやめておく。ご了承下さい。
 そうしてそのまま人の流れへと乗り、晴天のもと、広々としたスペース行われているコスプレ会場へ。外に出ると視界がぐんと開けるとともに、数々の色鮮やかなコスプレ衣装が目に飛び込んで来た。
「……へえ。まゆりも相当凝ってる方だと思ったけど、どれもこれも凄いわね」
 会場に入り、まゆりたちを探しがてらレイヤーを見て回る。大半は原作をしらないコスプレだ。それでもその威容というか、独特の「らしさ」には少なからず圧倒されてしまいそうになって、おそらく紅莉栖もそうなのだろう、「へえ」とか「おお」とか「うわっ」とか目まぐるしいことこの上ない。ちなみに最後の驚きはレイヤーの露出過多な衣装を見ての感想である。メリケンのくせにそういう感性だけは奥ゆかしいなこいつは。
「ちょ、ちょっと岡部、あのアクセとか凄いんじゃない? 自作してるのかしら」
「まゆりが言うには、知り合いに頼んで作製したりすることもあるらしいが……おい助手よ、お前、まゆりたちを探しに来たってことを忘れていないだろうな?」
「わ、忘れてないわよっ。けど、生で見たら予想以上に凄くって」
 とか言ってるそばから、「うわ、ポーズまで決まってる……あれはさすがにできないわ」なんて呟きつつふらふらと先へと進んでいく紅莉栖。どうにも変なスイッチが入ってしまったらしい。ハイテンションであちらこちらを見て回るその後ろ姿は、どう見ても興奮しているお上りさんそのものである。
 ただそういう人間が少ないというわけでもない。コミマのコスプレイベントは今や結構な知名度があるそうで、いわゆるステレオタイプなカメコだけでなく、外国人含め物珍しげにコスプレを眺める人も数多い。紅莉栖の背をのんびりと追いながらコスプレを流し見ている俺も、おそらくそう見えていることだろう。
「む?」
 そうしてさすがに展示場ほど広大なわけでもないコスプレ会場の行き止まりで、少しばかりの人だかりができているのが目に入る。芸能人か、あるいは有名レイヤーか。紅莉栖も気になるようであたりを気遣いながらちょっぴり背伸びをしたりしなかったりしているが(そして俺からはその間抜けっぷりが丸見えである)、少し端にずれると俺の目線からはかろうじて人垣の奥が見通せた。
「……って、おい、あれはまさか」
「ちょっと岡部、見えてるなら肩貸しなさいよ」
 ぐいっと左肩を引っ掴まれ、つっかえ棒のようにうまくバランスを取りながらその頭を俺の肩口に乗せてくる紅莉栖。こいつの根性と、いざというときの外聞の無さは相変わらずだ。じーっと睨むように奥を見つめ、ほどなく気付いた紅莉栖が「あっ」と声を上げる。
「ねえ岡部。あそこに居るのって、もしかして……」
 いや、もしかもなにも無かろう。
 人だかりを集めるほどの有名レイヤー。その隣には「トゥットゥルー☆」とか言いそうな女子高生が居て、最前列ではスーパーハカーみたいなやつが懸命にカメラを向けていた。
 ぱしゃりぱしゃりと焚かれるフラッシュ。そうしてカメラや群衆の視線を一身に集めるレイヤーとは、まあ言うまでもなく。
「……ルカ子、人気があるとは聞いていたがこれほどまでとは」
 ブラッドチューンの星来とかいうキャラのコスプレをした、神社の跡取り息子がそこに居た。



 それから二十分ほどして撮影会(?)は解散し、私服へと着替えたルカ子が軽い足取りで戻ってくる。重責からの解放――というよりは、ルカ子もまた紅莉栖やまゆり同様に若干テンションが上がっているように見えた。無理矢理連れてきた時とのそのギャップに、思わず頬が緩むのを自覚する。
「すみません、岡部さん。あの、岡部さんたちを待っていたんですが、その、思った以上に人が集まってしまって……」
「いやなに、気にするな。興味深いものも見れたしな」
「――っ!」
 ひぃ、と悲鳴に近いような呻きを上げてルカ子の身体が固まる。楽しんでいるようなそれまでの態度と、そこから生じてしまう恥ずかしさは当人にとっては別物らしい。それでも強制されているわけではなく、ある程度進んでコスプレをするようになったというのだから、本人も折り合いはつけているのだろう。見ている方にとってはその恥じらいもまた魅力なんだお、とはどこぞのアホの弁。
 まあ確かに、自信満々でコスプレするようになったら、それはもうルカ子ではないと俺も思うが。
「……あの、その……どう、だったでしょうか」
「コスプレか? そうだな、衣装自体はまゆりが縫っているのをラボで見ていたが、うむ、似合っていたと思うぞ」
「本当ですか? 変じゃ、なかったですか?」
「本当だ。だいたい、そんな変だったらあれだけ人が集まるわけもないだろう。……ククッ、これも妖刀・五月雨を使った訓練――それすなわち師であるこの俺、鳳凰院凶真の教えの賜物だな! フゥーハハハ!」
「は、はい! あ、ありがとうございますっ」
 ぺこり、と深々とお辞儀。ここで律儀にお礼を言ってくるのがルカ子である。頭を上げれば嬉しさに溢れた笑顔がそこにはあって、その端正な顔立ちには誰もがどきりとしてしまう。
 だが男だ。
「……さて。それではまゆりたちが戻るまで、少し見て回るか?」
 ルカ子のコスプレが終わるとともに「ちょっと待ってて」と言って消えたまゆりたちと紅莉栖は、どこに行ったのか、いまだに戻ってきそうにない。せっかくのコスプレ広場、立ち止まっていても迷惑だろう。同人誌と違ってアニメやゲームそのものに詳しくなくても面白さはあるだけに、俺も多少興味が湧いていた。
「えっ? あの、いいんですか?」
「いいもなにも、悪いわけがないだろう。いや、疲れがあるなら構わな――」
「いえ! 大丈夫です!」
「そ、そうか……ああ、ならいいんだが」
 一応広場内を移動していることをまゆりと紅莉栖にメールして、ルカ子とともに広場をうろうろと歩き始める。やはり少しばかりサイクルめいたものがあるようで、紅莉栖と回ったときとは若干の入れ替わりが見て取れた。よくよく見ればルカ子のような女装レイヤー(それは俺が「女装」だと見て分かるレベルのものだが)も少なからず居て、ああ、これがルカ子をすんなりと受け入れられた下地だったのかと理解する。
 そして俺にとって意外だったのは、私服姿のルカ子がレイヤー・非レイヤーを問わずそれなりに話しかけられたことだった。「あ、星来のひとだ」「さっきの可愛かったです!」「あれ、まゆしぃさんと一緒じゃないんだ?」からはじまり、「ファンです! サインください!」「リアルボクっ子きた!」「ネットで見ました結婚して!」、「つつつつぎは是非準にゃんか瑞穂お姉さまを!」「秀吉がいないとか素人」「いやいや智ちんだろJK」、果ては「隣の人は彼氏ですか?」「白衣×男の娘とかアリだよね」「明日までにコピ本作ってくる」などなど。半分くらいは意味がよく分からなかったが、それでも嫌がる素振りもみせず楽しそうに対応しているルカ子を見て、俺は嬉しさ半分安堵半分といった気分になっていた。
 ルカ子にとって、俺との出会いのときにあったアレはわりとトラウマに近い。だからまゆりやネットで聞くこいつのコスプレっぷりに少しばかりの違和感を覚えてもいたのだが、なんだ、こうして見れば、結局必要以上に心配をする必要はなかったのだと思わされる。
「満喫しているな、コスプレライフを」
 まゆりを仲介して知り合ったというコスプレグループと話し終えたところで、広場を見渡しながらの呟き。ルカ子は俺の言葉に少し考えた後、こくりと首を縦に振った。
「そうかもしれません。最初はまゆりちゃんに半ば強引に、って感じだったんですけど……知り合いもできて、見に来てくれる人も増えてってなると、まゆりちゃんに誘ってもらって良かったなって思えるようになってきて」
「人気もだいぶあるみたいだしな。だから言ったろう? 男だろうと女だろうとそんなことはどうでもいい、と」
「はい。岡部さんの言う通りです。ボク、少しだけ自分に自信が持てるようになった気がします」
 自分の顔が好きではないと言っていたルカ子。過程はどうあれそのルカ子が本当に『少しだけ』自信が持てるようになったというのは、だから俺にとっても喜ばしいことだった。
 ルカ子は男だ。気持ちを踏みにじってまでそれを肯定した俺には、きっとそれを支える義務がある。
「本当に感謝してます。まゆりちゃんにも、岡部さんにも。恥ずかしいですけど、良かったら、あの、これからもぜひ見に来てください」
「ああ、言われずともまゆりや紅莉栖を連れてまた来るつもりだ。……ククッ、これも運命石の扉の選択なのだろうからな」
 エル・プサイ・コングルゥ。
 かつてと異なり携帯を取り出さずそう呟いて、止めていた歩みを再開する。
 それから俺たちはしばし、まゆりたちが戻ってくるまで二人でコスプレを見て回っていたのだった。



「あ、オカリンとるかくん居たー。トゥットゥルー☆」
 ルカ子とともにコスプレを一通り見回り終わったころ、ちょうどよくまゆりの脳天気な声が遠くから聞こえてきた。オカリーン、るかくーんと意外とよく通る声で連呼されるのは、ルカ子ならずとも恥ずかしい。大声で人の名前を呼んでくることと予想外の遅さのどちらに先に文句を言うか考えつつ振り向けば、ぶんぶんと手を振るまゆりの姿と、それに引き摺られるようにしてうつむき加減にやってくる――
「助手がコスプレ……だと……」
 長い髪はそのままに、助手の服装がいつもの改造制服とはだいぶ異なる、白を基調としたコスプレ衣装になっていた。衣装の裾がふわりと風に舞う。
「えっへへー、ごめんねー、ちょっと着替えに手間取っちゃったのです。で、で、どう? どうかな? クリスちゃんのコスプレ〜!」
「ちょ、ちょっとまゆり……!」
 ででーん、と自らの成果を示すようにまゆりが紅莉栖を押し出してくる。いつもはうざったいくらいに自信満々に張られた背筋が、今はふにゃりふにゃりと不思議な波を打っていた。もじもじとしたその態度はルカ子のそれと変わらないながら、けれど顔だけは睨むようにこちらを見上げてきてもいて。……まあ、それだけ恥ずかしがっていれば怖さなど感じようはずもないんだが。
「わあ、牧瀬さん、とっても可愛いです。ボク、すごく似合ってると思います」
「そ、そう? サンクス、漆原さんにそう言われると少し自信になるわ」
 そうルカ子に対しくすりと笑って、こちらを再びギロリ。視線を外せば隣ではルカ子が苦笑していて、まゆりは「どうかな、どうかな」と紅莉栖同様俺に意見を求めてきていた。
 ……く、くそっ。ここは『アレ』でやり過ごすしかない。電源を入れぬままに携帯を懐から取り出して――
「あっ! おいこら、取るな助手!」
「うっさい! またどうせ『……俺だ。いま”機関”から精神攻撃を受けている』とか言うつもりだったんでしょ! あと右腕の疼きも禁止!」
「ぬ、ぐっ……!」
 先手を取られて言葉に詰まる。
「で、どうなの岡部。私だって恥ずかしいんだから、感想くらい言ってくれてもいいじゃない。それとも似合ってない?」
「い、いや……似合って……るぞ。サマになってると……ああ、思う」
「そ、そう? ま、まあ、あんたのことだから話半分に聞いておくけど……、うん、ありがと」
 あああああもう! アホかこいつは! 人に無理矢理感想を吐かせておいて、それを聞いて恥ずかしがるくらいなら最初から聞くなと!
 ルカ子は相変わらず苦笑い、まゆりはにこにこ顔で「えへへ、オカリンはクリスちゃんのこと褒めるとき、いつも照れるんだよねー」なんて言っていて、俺は紅莉栖とともに顔を押さえながら地面へとへたりこむ。
 ……く、くそ。やっぱり、「フゥーハハハ! それなら露出も少ないし、臀部の蒙古斑も隠せるな助手よ!」とか言っておけばよかった……。



 どうやら助手のコスプレは、コードジアースのQ.Q.というキャラのものらしい。「ちょっぴり流行は過ぎちゃったけど、クリスちゃんに着せるならこれだ! ってずっと決めてたんだー」とのこと。そう言えば以前「オカリンはコードジアースのゼロサム様コスが似合うと思うんだー」とかも言っていたし、まゆりはそのアニメが相当好きなのかもしれない。俺はせいぜい、名前を聞いたことがあるレベルなのだけれども。
「ほんとはオカリンの衣装も作ろうと思ってたんだけどね、ちょっと時間もぎりぎりだったし、だったらクリスちゃんの衣装を完璧にしようと思ったの。だからね、その衣装は最近の中でも一番の自信作なのです」
「そうなんだ。たしかに本格的かも……この革ベルトも本物よね」
「牧瀬さんは、足が長くて羨ましいです。ボクはあまり、こういう衣装は似合わなくて……」
 恥ずかしさから回復したあと、俺たちは紅莉栖のコスプレデビューを祝って少しばかり広場を歩いてみることにした。挨拶回りも兼ねているのだろうか、三人はコスプレの話をしながら、レイヤーに色々と話しかけてみてもいる。まゆりに至ってはアイドルの売り込みをかけるマネージャーのように「クリスちゃんをよろしくお願いします!」と宣伝までしていて、その評判はさもありなんといった感じ。もとから紅莉栖は見てくれだけはマシなのだ、それにまゆりの衣装が似合えば、高評価も頷けようというものだった。
「オカリンのゼロサム様コスも間に合えばなあ。まゆしぃは二人揃った画も見てみたかったのです」
「いや、岡部にゼロサムは似合わないでしょ。『鳳凰院凶真が命じる!』とか叫びながら魔眼がどうとか言われたら……あ、いつも通りか」
「おい助手、お前いま俺を馬鹿にしたろう?」
 気のせいでしょ、なんてそっけなく返しつつ、ぷっと吹き出して笑う紅莉栖。それが人を馬鹿にするときの態度でなくてなんなのか。それともあれか、それがQ.Q.とかいうキャラのなりきりだとでも言いたいつもりか? 望みならその口にピザをねじ込んでも構わんが。
「あ、あの――っ」
 そうして歩いていると、また声を掛けられた。それはレイヤー仲間としての挨拶だったり、あるいは写真を撮りたいという申し出だったり。少なからず有名人としての自覚はあるのか、ポージングしての写真撮影は丁重に断りを入れているようだったが、レイヤー同士の交流といった感じの撮影には紅莉栖は快く承諾を返していた。
 今回の相手はそのレイヤー仲間からの写真のお誘いだったようである。
「それじゃまゆり、お願いね」
「うん、任せて。……じゃ、撮りまーす! はい、トゥットゥルー☆」
 いつ買ったのか紅莉栖はそれなりに良さげなデジカメを持ってきていて、撮影係はもっぱらまゆりやルカ子である。「意地でも岡部には頼まないから」なんて言うあたり、あいつは俺をなんだと思っているのだろうか。
 俺は別にローアングルから撮影を狙うようなアホなことはしない。そもそもそんな興味もない。やるとすれば、ただちょっとばかしまばたきの瞬間とか、くしゃみの瞬間とか、そういうシャッターチャンスを狙うかもしれないというだけだ。
「……しかし、まあ」
 写真を撮り終えて、お互いの品評が始まる。相手へのリスペクトから始まり、特殊素材の苦労話、原作の論評、それに垣間見える自作衣装への自信など。異世界チックな服装が集まって色々と喋っている姿はただそれだけでおかしなものだが、それ以上に、いわゆる「普通の」学生同士みたいな会話を嬉々としてする三人を見て、俺は何となく不思議な気分になっていた。
 まゆりはまだ分かる。あいつは誰とだって仲良くなれる性格だし、バイト先その他で知人と仲良くやっているのもよく見ている。
 けれど、俺が驚いたのは残る二人の方だ。ルカ子は自分に自信がなくて、反対に紅莉栖は自分に自信がありすぎて、どちらもあまり友人関係は広くない。ルカ子は言わずとも分かるし、紅莉栖に至っては実際に「逆留学中は誰も話しかけて来なかった」と言っていた。俺が知る知らないに関わらず、こいつらが親しくしていたのはまゆりくらいしか居なかったんじゃないかと思えてしまうくらいだった。そしておそらくは、事実そうなのだろうと思う。
 そんな二人が、片方は女っぽいという自分のコンプレックスを、もう片方は天才若手研究者という肩書きを遥か遠くに投げ捨てて、こうしてきゃいきゃいとはしゃいでいる。それを嬉しく感じるくらいには俺はこいつらに肩入れしているし、きっとまゆりにしてもそうだろう。
 ま、まあなんだ、こいつらは我がラボの大事なラボメンだからな。その心配をするというのもラボ創始者の務めというものなのだ。それ以上の他意などない。ご了承下さいというやつだ。
「おーい、岡部。いつまでそこに突っ立ってるのよ」
「あ、あの、もう少ししたら橋田さんと合流して広場を出ようって、まゆりちゃんが」
「ん? ああ、そうか。悪いな、少しぼうっとしていた」
「見とれてたんですね、分かります」
「言ってろ」
 最初の恥じらいはどこへやら、今はもうすっかり衣装を着こなした紅莉栖が「はいはい」と笑って、こっちこっちー、と手を振るまゆりの姿を追っていく。
「それじゃ、ボクたちも行きましょう」
「そうだな。……なあ、ルカ子よ」
「はい?」
 律儀に立ち止まり、ルカ子はこちらを見上げて小首を傾げる。私服だというのに女にしか見えないその姿も、けれど「あのコミマ」のときよりずっと輝いて見えた。男だろうと女だろうとそんなことはどうでもいい。とにかく自分に自信を持てというあの鳳凰院凶真の言葉は、だからきっとこれ以上なく正しかったのだろうと今でも思う。
「コミマ、来て良かったな」
「――はいっ。ちょっと恥ずかしかったですけど……、でも、こんなに楽しいんですから」
 我が弟子ルカ子へと投げかけた言葉は、とびきりの笑顔とともに返されて。
 それに対して俺は自分の足が軽くなったことを感じながら、俺たちは再びまゆりと紅莉栖が向かった方へと歩みを再開したのだった。



 それから俺たちは思い思いの場所を巡り巡って、大賑わいの中コミマは大した問題もなく無事終了。それでもテンションの落ちきらない俺たちは有明のファミレス(これがまた混んでいた)で時間を潰したりしていて、帰る頃には既に日がすっかり落ちていた。それでも寒さがまったくないというのはさすが夏真っ盛りといったところだ。
「いやー、オカリン太っ腹。僕たちにできないことをやってのける。そこにシビれるッ! あごがれるゥ!」
「でも……本当によかったんですか? その、奢りだなんて」
 遊び呆けた帰り道。国際展示場駅までの道すがら、はしゃぐラボメンどもから俺はその尊敬の眼差しを一身に受けていた。
 というのも、コミマが終わって以降の飲食代を全てこの鳳凰院凶真が受け持ってやったためである。
「フゥーハハハ! この程度、俺にとっては造作もないこと! さあ、もっと褒めろ! ここぞとばかりに俺を崇め奉るがいい!」
「オカリンかっこいいー」
「ま、岡部もたまにはいいことするじゃない。普段は家賃を払うのもひいひいしてるくせに」
「んー? 聞こえんなあクリスティ――――ナッ! お前からだけ支払い分を徴収しても、俺は一向に構わんのだぞ?」
「はいはいゴチになりました! ほうおういんきょうまさんはすごいなーあこがれちゃうなー」
 紅莉栖の棒読みに、俺はフフンと鼻を鳴らして返してやる。実はSuicaが無ければ電車賃もやばいくらいにギリギリだったのだが(それもこれもまゆりが食いまくったせいだ!)、オーバーしないのはこれも運命石の扉の選択だ。会計の段階になって消費税にビビりまくったなんてことはない。断じてない。ご了承下さい。
「でもオカリンが出してくれて、まゆしぃは助かったのです。軍資金はいくらあっても足りないからねー」
 ぽやぽやとしたまゆりの言葉に、うんうんとダルが頷きを返す。
 つまるところ、俺がかなり無理をして食事を奢ったのはそういうことでもあった。ダルは正直どうでもいいが、まゆり、そして明日もコミマに来るという紅莉栖には、思う存分楽しんで欲しかったのだ。あいにく俺は明日以降来る予定はないし、来たとしてもそれほど欲しいものはない。だったら飯代くらい、と思っただけである。……いやまあ、こんな金額になるとあらかじめ予想がついていたら、ちょっぴり二の足踏んだかもしれないが。
 唯一の良識派であるルカ子はかなり気にかけていて、さっきも店を出た折「足りないなら……」と言ってきてくれたものの、それはやはり断った。マッドサイエンティストは施しは受けないのだ。べ、別に無理をしているわけではないぞ!
「ねえねえ、星が出てるよー。これなら明日も晴れそうだねー」
「あんまり晴れても暑いから困るお……。曇りのときのコミマの過ごしやすさは異常」
「えっ、まゆりちゃんも橋田さんも、明日また来るんですか?」
 歩きながらののんきな会話に、驚愕のルカ子。続いて「私も来るわよ」という紅莉栖の言葉に更なる驚きを重ねながらルカ子は俺へと視線を移すが、俺はさすがに首を振る。
「あまり目立って”機関”に知られては困るからな。俺にはラボにいながら、この会場の状況を把握する手段があるのだ!」
「それ、@ちゃんの実況スレのことだったら笑うわよ?」
「ぬぐ……っ!」
「明日もまた朝から高度な情報戦が始まるお……」
 なんのことが分からないながら、「あの、頑張ってくださいね」とエールをかけるルカ子は相変わらず健気である。うちの助手にもちょっとは見習ってほしいものだ。
 弟子と助手、どうして差がついたのか。慢心、環境の違い……。
「――って、おい、まゆりはどこいった?」
「お?」
「あれっ?」
 駅までは一本道。迷うはずがないと思って振り返れば、まゆりはお得意の星屑との握手を発動させていた。夜で星が見えるから、まさにその名の通りの能力発動である。油断も隙もありゃしない。
「さすがに私も、いい加減慣れてきたわ……」
「まゆ氏の気配を殺す能力は相変わらず凄いお」
 一年もラボメンをやっていればしばしばまゆりのコレには遭遇するもので、二人にさほどの驚きはない。ルカ子にしても同様だ。俺にとってもそれはとても見慣れた仕草で、だから笑いながら声をかける。
「おい、まゆり! ぼけっとするな」
「あ、オカリン。えへへ、ごめんねー」
 思ったよりもすぐやめて、大きな荷物を引き摺りとてとてと寄ってくる。
 ……コミマの帰り道、星屑との握手。もし――そう、もしも去年の俺が何かを諦めてしまっていたのなら、まゆりはそのまま空へ吸い込まれていってしまったんではないか。久しく気にかけていなかった俺のリーディング・シュタイナーが、俺にそんな幻覚を訴えてきた気がなぜかした。
 けれどもう、そんな心配は必要ない。時計を見れば七時半をとうに過ぎ、はや八時になろうかというところ。ぽんぽんとまゆりの頭を軽く叩いて、さっさと駅へと向かうことにする。
「岡部? どうかした?」
「大したことじゃない。それよりお前たちは明日もあるんだろう、さっさとラボに帰るぞ!」
「なんで行かないあんたがそんな偉そうなんだ……」
 紅莉栖の愚痴交じりの文句など知ったことではない。それに俺は少なくとも助手である紅莉栖よりは地位的に偉いのは確定的に明らかである。
「オカリンも来ればいいじゃん。どうせ暇なんだしさ」
「どうせ暇とか言うな! 俺は”機関”との来るべき聖戦を回避する手段としてだな――」
「まゆりちゃんたちみんなが行くなら……その、ボクも、あの」
「え、来る? るかくん来る!? 来てくれたらまゆしぃは嬉しいのです!」
「は、はい。お父さんに話せば……あの、多分、大丈夫ですから」
「あれー、漆原さんも来るのに、一番暇そうな誰かさんは留守番してるのかなー?」
「なん……だと……」
 思わぬ急展開にそれ以上の言葉が出ない。
 いや俺も来たって構わないのだが、この時間に帰って明日は始発って疲れ……あれ? 疲れる……よな? あれ? 助手もルカ子もなぜそんな元気溌剌なんだ? 疲れるよな? んん? 俺がおかしいのか?
「で、鳳凰院凶真さんはどうするんだ?」
 ニヤニヤしながら紅莉栖が俺に問うてくる。
 ……まあ、なんだ。ルカ子含め、明日もまた来るということは、今日がそれだけ楽しかったということでもある。俺だってそうだ。疲れはあるが、楽しくなかったなんてことは断じてない。
 だから、しょうがない。俺はふうと息を吐いて。
「仕方ないな。ラボメンからそれだけ求められては、フッ、この鳳凰院凶真、行かざるをえまい。人望があるというのも時として辛いものだ」
「岡部さんも、来るんですか? それなら、ボク、嬉しいです……!」
 いやここは凶真さんと呼んで欲しかったんだが……。
 けれど、その笑顔はかつては決して見れなかったものだ。友人として、あるいは師匠としてでもいい、その喜びようが見れたことは俺にとっても救いであって。
「やったわねまゆり、明日も午後は食べ放題よ」
「おい助手! そんなことは一言も言っとらんわ!」
 そうして俺たちは暗くなった道を少しだけ騒がしく歩きながら、初日のコミマ会場を後にしたのだった。
 まったく。明日ちゃんと起きられるんだろうか、俺は……。

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